ライフイベントを自分なりにコントロールして幸せになろう
このnoteは岩波書店から出版されているJ.S.ミルの『功利主義』を読んで、「幸福とはなにか?」を自分なりに考えてみたnoteです。
幸福ってなんだ?
心が満ち足りていること。幸せ(しあわせ)ともいう。
(wikipedia『幸福』から抜粋)
ということで幸福になるには心を満ち足らせばいいらしいのですが、これだけ世の中に物が溢れ、情報が飛び交い、選択肢とその分岐が膨大な量になってしまっている今の世の中でどうやって心を満たせばよいのでしょうか?
おおきな幸せ、ちいさな幸せ
そこで僕は心を満たしてくれる幸せに『おおきな幸せ』と『ちいさな幸せ』という概念を持ってみることにしました。
『おおきな幸せ』を、
大好きな人と交際や結婚ができたり、志望校に進むことができたりなど、一回で自分の人生が大きく分岐するがそんなに頻繁に起きず、起こすには多少なり努力や運の要素が絡んでくるものとし、
『ちいさな幸せ』を、
ちょっとしたことで褒められたり、買い物でおまけしてもらえたり、かわいい犬を見かけたり、みたいな一回で人生の分岐は起きにくいけどその代わりにわりと頻繁に起き、ほとんど自分の無意識下で起きるようなこと
としました。
また、『幸せの継続期間』みたいな概念もあるように感じていて、
おおきな幸せの方がスパイクが大きいぶん幸せな状態が1年以上続き、「受験勉強をがんばって志望校に合格できた」みたいなイベントはともすると一生ものの自信に繋がるように感じます。
逆に、ちいさな幸せはスパイクが小さいぶん次の日のお昼くらいにはほとんど効果がなくなり、1週間もたつと経験そのものを忘れてしまうように思います。
バランスが大事
心が満たされた状態を維持するためには、おおきな幸せとちいさな幸せのバランスがすごく大事なのだと思いました。
自分で起こしにいかないとなかなか起きにくいおおきな幸せを常に狙うのもいいのですが、運やタイミングの要素も絡んでくるのでずっと狙い続けていると次第に疲れていってしまいます。
かといってちいさな幸せで心を満たし尽くすようにしてしまうと、それこそ毎日一定回数ちいさな幸せに出会わないと満たされず、「幸せの自転車操業」みたいな状態になってしまい、それはそれで長くみると幸せには程遠い日々になってしまいそうです。
おおきな幸せとちいさな幸せの自分なりのバランスをうまく取れることが心が満ち足りた『幸福』という状態なのかもしれません。
ミルさん、かく語りき
狂喜が続くことは幸福ではない。
たまに苦痛はあるが、能動的にしばしば幸福をやれるのが、幸福としての合格ライン。(あまにがさんのメモから抜粋、要約・1章)
高次元の快楽を楽しむためには健康や余暇が必要。余裕がなくなっちゃうと低次元の快楽に進みがちだよね(自分の読書メモより・2章)
「欲望」は受動的なもので、
「意志」は能動的なものだ。(自分の読書メモより・4章)
まとめ
まとめると、
功利主義の本でミルさんは「よい教育とよい習慣こそ最強!陶冶やっていき!」みたいなことを書いてたのですが、教育も習慣を自分で用意できないから困ったり不幸を感じたりしてるのになぁ...と思うので、自分なりに良い方向に向かえそうな言葉で改めて表現しようとして出てきた言葉が
野望と未知への興味を持とう!
という言葉でした。
野望は、上に書いた「受動的な欲望」と「能動的な意志」が混じったものだと思っていて、達成できると『おおきな幸せ』に繋がるように思います。
また、未知への興味は、日々のちょっとした時間にする行動に変化を与えてくれて、それがありきたりで予測可能になってしまった日々に刺激を与えてくれ、『ちいさな幸せ』に繋がるように思います。
あとがきのようなもの
自分自身が普段から「自分の機嫌は自分で取る」をモットーにしていて、自分の機嫌の取り方をぼんやり考えてみると『おおきな幸せ』『ちいさな幸せ』みたいな概念があるなぁと思いこのnoteを書きました。
社会で暮らして労働をしていると、自分に非がないのにテンションを下げられたりすることがあったりもしますが、それにできるだけ引っ張られずにさっさと切り替えてしまうために『ちいさな幸せ』を使って自分の機嫌を取ったりしています。
忙しい毎日だと思いますが、いい感じに野望と未知への興味を持って面白おかしく過ごしていきたいなぁと思います。
スペシャルサンクス
ナイスまとめのあまにがさん
功利主義を読むきっかけを与えてくれた三ツ星スラムのみなさま
and you!(なんちゃって)
大阪で音楽関係の仕事をしています。 アニメや漫画、TVゲームからボードゲームまで広く遊びが好きです。