映画『ABYSS』『HOSHI 35/ホシクズ』『シン・ゴジラ:オルソ』
自分は作曲家なので、主にクラシック・現代音楽ジャンルで作曲家や演奏家の同業者の関連するコンサートには平均で月3回くらい、多い時は連日でも行くが、映画館には滅多に足を運ばず、普段は年に1, 2回である。では家で見るかというとこれも見ない。60, 70年代の古いフランス、イタリア映画、それもヌーヴェルヴァーグとかのまじめ系ではなくてルイ・ド・フュネス、コリューシュ、トト、リーノ・バンフィらのコメディ映画(日本だとクレージーキャッツやザ・ドリフターズのノリに近い)をYouTubeで見つけては字幕なしで語学の練習として見るのは好きだが、最近はご無沙汰だった。
ところが最近は割と立て続けに映画館で映画鑑賞した。
ABYSS
まずは『ABYSS』(須藤蓮 監督、辻田絢菜 音楽)筆者は辻田さんの大ファンなので、その彼女が音楽担当だからという理由で、しかもアフタートークに辻田さんが出る日に観に行った。2018年の帰国直後に、辻田さんの人となりを全く知らないままNHK-FM「現代の音楽」で彼女のオーケストラ作品CollectionismⅪ/Sidhe for orchestra」を聴いて思わず釘付けになったことは忘れ難い。以後、彼女は現代音楽のコンサート現場だけでなく、テレビ東京の幼児番組「シナぷしゅ」に器楽曲という名目で「んぱぱぱ ぴぴぴん」を発表し、同じく幼児向けのNHK Eテレのアニメ「インセクトランド」の音楽も担当し、最近ではもっと大人のアニメファン層向けのアニメやゲームも担当しているという、商業音楽でも大売れの経歴の持ち主である。それらの音楽に、フルートのジェットホイッスル、弦楽器のアルト・スルポンティチェッロといった現代音楽ジャンルで共有される特殊奏法を駆使して、器楽の生演奏をベースに多彩な音色のパレットを展開しながら、絶妙な和声と全体の楽曲構成をバランスよく配置させる。
現代音楽というジャンルにおいて調性を援用させる音楽は得てして近代音楽、特にフランス音楽のパスティーシュ pastiche (偽物)になりがちで退嬰的であり、そういうスタイルの作曲家というのは現役音大生や卒業したての若手作曲家にうんざりするほど多いのだが、辻田さんの作風は調性的でありながらも全くそのような退嬰さを感じさせることは少しもなく、むしろ毎回あらゆる瞬間において新鮮さを孕んでいる。
映画のあらすじは死んだ兄の恋人との恋愛という内容で、渋谷でセックスに溺れる若い男女というわりと大人びたというかドギツイ雰囲気である(R-15指定)。
須藤蓮監督が主演俳優も兼ねているというのが特色で、つまり普通なら他の俳優が演じている間に監督として第三者的視点で俯瞰して撮影を見ているわけだが、主演俳優も兼ねるとなると、少なくとも主演俳優が画面に出てくるシーンでは、演じながら監督業も兼ねるということになる。
渋谷のネオンやクラブの原色、タバコの煙まみれのモヤのかかった画面、クライマックスの海の青など、色と質感にこだわった画面構成で、映像の美的感覚に優れた作品であるということは映画鑑賞素人にも伝わってくる。
そこに乗ってくるのが辻田さんの音楽で、まずチェロのサーキュラーボーイング(らしき)音色がタバコのモヤと溶け込む。それから本人曰くシンセサイザー音色と言っているが、サインウェーブやスクエアウェーブなどのオシレーター的な音はほぼ聞こえず、逆転再生のことを言っているのだろう。その逆転再生が事前にサンプリングされていて打ち込めば出てくるのであれば、それはそれでシンセ打ち込みということになるかもしれない。(拙作『ネズラ1964』でも冒頭タイトル音楽でちょこっとだけ逆転再生を使って、そのソースは別録りで生音から加工した)
辻田さんの音楽の最大の特徴は、意外性のある転調である。特に現代音楽向けのオーケストラ作品においては、それによって調性音楽の根幹たる機能和声の進行を悉く遮る。瞬間的な縦の響きはディアトニックでありながら、ディアトニックが本来持つ機能和声の文脈と全く乖離させていて、そこに筆者は魅力を感じるのである。一方で「インセクトランド」などの劇伴や、コンサート作品においても「日本民謡によるパラフレーズ」などの編曲を主とする作品においては、従来的な機能和声を保持している。ところがそれがドビュッシーやラヴェル、その後輩世代のフランス六人組などの従来的な書法とは一線を画する、彼女独自の世界観を持っている。ラヴェルに影響を受けていることは一目瞭然なのだが、決してそれがフランス近代音楽のパスティーシュに陥っていない。本作『ABYSS』においてもそれが活かされており、前半の公園のシーン、後半に渋谷から田舎に出るシーンなどで、その独特の和声感覚が本領発揮される。音楽が画面の説明や補佐に留まっておらず、むしろ画面とは違う意味を与えている。楽しい場面に悲しい音楽など画面と正反対の雰囲気の音楽を当てることを「映画音楽の対位法」と言うが(本来の音楽用語の対位法とは異なる)、辻田さんの音楽は「正反対」ではなく、むしろ画面にはない新たな要素を音楽が語ることによって、別の要素へと「止揚」していく、エイゼンシュテインのモンタージュ理論に近い。モンタージュ理論で想像されるように音楽が細切れになってつなぎ合わされていると言うわけではないが、フィルムの連続性の切断とその前後入れ替えによる別の意味への止揚いう要素の代わりに、辻田さんの語法の特徴である調性音楽における意外性のある転調が、その機能を果たしている。転調によって音楽の色彩感が(しかも従来の語法と違う意外性を持って)ガラリと変わるということが、画面の色彩を重視しているであろう須藤監督の美的感覚とも良く合っていると言える。「んぱぱぱ ぴぴぴん」のような幼児向けアニメーション(高橋まりな 美術)の原色的色彩が動く絵にも合っているのだが、それとは違う大人びた雰囲気の映画にも十分通用する、いやむしろコンサート作品として音楽単体で聴いても良い、辻田さんの音楽の底力に敬服させられる。
HOSHI 35/ホシクズ
続いては『HOSHI 35/ホシクズ』(横川寛人 監督)筆者は挿入歌を担当した。本編音楽は矢田遊也という人で、筆者ではない。東北在住で遠方とのことで、今回の初上映時には残念ながら矢田氏にはお会いできなかった。監督にはよろしくお伝えするようにお願いした。
普通は映画で「挿入歌」というと、特にそれが本編音楽とは別の作曲家が作曲する場合、本編音楽とはまるで関係なく作られた一種のプロモーション音楽のようなもので、いわゆるポップスの歌曲の体裁を取るものだ。『バック・トゥ・ザ・フューチャー』で本編のハリウッド風クラシカルなメインテーマとは別に、劇中の主人公マーティが演奏する体裁でロックバンドの音楽が使われたのが良い例であろう。日本では『風の谷のナウシカ』で久石譲の本編音楽とは全く関係ない細野晴臣の歌が作られて、本編には一切登場しないが劇場公開時の上映前後にホールで流された。同じ宮崎駿監督の『魔女の宅急便』でも冒頭に久石譲の本編音楽とは全く関係のない松任谷由実の歌が流れるが、その歌の最後に画面内で主人公キキがラジカセのボタンを押して音楽を止める描写があり、これは後述の「オフ」に見せかけて「画面外」という描写と取れる。
しかし、今回の場合はむしろ映画の中で必要な音である。神社のシーンで使われる祈祷用の合唱音楽というものらしい。
ミシェル・シオンの著書「映画の音楽」では、映画で鳴っている音を3つに分けている。すなわち、
「オン」画面内で音響が鳴っており、それは登場人物にも聞こえている。
「画面外」画面の中に音を出す物体がないが、映画の中で鳴っている音(音楽や騒音)は登場人物にも聞こえている。
「オフ」画面外で鳴っている音響、音楽であり、登場人物にはそれが聞こえていない。主としてBGMに適用される。
この定義でいくと、その神社で流れる祈祷音楽というのは「画面外」にあたる。画面には見えないが、神社の氏子のような人々が劇中にいて、それが後ろで儀式として歌っている。登場人物たちにはそれが聞こえている。というものらしい。
となるとこれは、本来前編の音楽を担当している矢田氏の担当する領域および責任になって然るべきだが、彼の作風は主にピアノやギターの宅録であるとのことと、東北在住で合唱の収録に都心まで出てくるのが難しいらしい。それに横川監督にとっては前々作『ネズラ1964』で筆者が音楽担当し、その次で前作の『怪猫狂騒曲』の時も収録を兼ねたコンサートで筆者がスコアチェックをしたりと色々な縁が続いたので、今回も挿入歌という形で一部分ではあるが筆者を起用してくれたのであろう。とはいえ、映画音楽全体にとっての重要な流れというのはもちろんあるわけで、そこに全く異質の音を持ってくるわけにはいかない。
そこで筆者としては、8月の作曲開始時点で唯一聴けた矢田氏作曲の予告編の音楽を参照し、そこでメロディを掴むとともに、教会旋法を援用したルバートの強いピアノ曲というジャンルであることを認知して、できる限りその作風に寄せて作曲した。とはいえ、神社で教会旋法である。なかなか水と油のような感じではあるが、まあ仏教の聲明とか御詠歌とかも教会旋法っぽいし、(仏教と神道は違うが)そういうコブシをつければ神社っぽくなるかとも思ったので、その矢田氏の予告編のメロディを聲明っぽいコブシで歌う、合唱はとにかく簡単に完全五度でコンティヌオにするだけという珍曲が生まれた。当初横川監督から「モスラの歌」っぽくという注文だったので、古関裕而の最も有名なモスラの歌はインドネシア語、伊福部昭の別のモスラの歌はアイヌ語(伊福部昭は幼少期にアイヌの集落に出入りしてアイヌの子供たちと遊んだ経験があるため)で歌詞が書かれており、それらにも想いを馳せたのだが、特に異国の話ではなく日本の神社が舞台なので結局脚本の中に出てくる固有名詞「あまのみちろく、ああー」というテキストを用いるにとどまった。
結果として、映画本編ではその祈祷音楽のメロディと、その少し後で出てくる幼体怪獣登場時の矢田氏のピアノ曲のメロディ(というよりA♭のリディア旋法の中でのスケールの上下)がうまく噛み合ったようなので、音楽的な連続性は保たれたように思える。祈祷音楽は本編内で2度使われた。(2度目は若干音程が下がっていたが、前奏のみで終わらせるように長さを調節して、さらにフェーズヴォコーダーで音程を保とうとするとプツプツ音が切れる場合があるのでそれを避けたのであろう)
とはいえど、ドビュッシーとラヴェルを並置したコンサートをしてもそれらがよく似た作風といえど別人の作曲なのはすぐにわかるように、いくら技法的に作風を似せるように持っていっても、やはり別人の作曲なのは肌ですぐに感じられるだろう。あとは筆者が作風を寄せた努力が観客に伝われば幸いである。異質なのは仕方ないとしても、それが世界観を壊さずにシームレスに繋がるかどうか。
収録は9月3日に行われた。クラウドファンディングで合唱ができるという話で特撮映画ファンが集まる、という話は事前に聞いていたが、素人合唱になることは火を見るよりも明らかで、案の定そうだったので、ここ5年ほど毎年コンサートで関わっていて『ネズラ1964』でも合唱を担当したヒーローコーラスを呼ぶようお願いして、プロ声楽家の根岸一郎、植田真史の両氏にソロを担当してもらった。そのクラファン合唱も収録するにはしたが、案の定すごい音痴(特定の誰かという話ではなく全体的に声質が修正しようもないド音痴)だったので、その日に帰宅した後でどうにも満足できず自分で宅録しなおし、合唱はいちおう倍音成分をちょっと軽く乗せてミキシングしておいた。最近の映画音楽に軒並み見られるコンプレッサーとリヴァーブをギンギンにかける音は筆者は好きではないので避けた。
結果として映画館内でその神社シーンが来た途端、ソロのお二人はともかくとしてコンティヌオ部分は(ほぼ)筆者の声(だけ)が館内中に響き渡り、筆者としては失笑するしかなかったのだが、その上映当日、合唱に参加していたという人3人くらいに声をかけられ、みんな自分の歌声が聞けて満足していたというので、まあ良かったのだろう、と思うことにしたい。
矢田遊也氏の音楽は、ピアノ中心のトラックと、ギターやドラムが入るトラックがあり、いずれも教会旋法を意識して作曲しているようだ。むろん不穏なシーンにはディアトニックから逸脱する不協和音程も出てくるが、それは無調音楽というジャンルではなく、調性音楽(というよりも旋法音楽)に対しての一時的なテンションとして説明できる。教会旋法のピアノ曲というジャンルにありがちな定番のVI-VII-iの交替(俗にAIRの『鳥の詩』進行と呼んでいる)が少なからず出てくるのはご愛嬌としても、クライマックスで巨大怪獣が出てくる場面はギターとキックドラム中心だったが終始E-durで固定していて、さらにエンディングは同じくギターとドラムで、なおかつミクソリディア旋法固定なのは特徴的だった。
脚本は横川監督自身が書いているらしい。監督の過去作品『大仏廻国』、『ネズラ1964』、『怪猫狂騒曲』と比べると、脚本の筆力は徐々に上がってきているように思える。が、今回もどうしても物語の不自然さは否めない。肝心の巨大怪獣も出てきて1, 2分で退場してしまうし、それではせっかく怪獣を撮影した映像美術も活かしきれない。もっと主役(過去の少女と幼体怪獣ではなく現在の主人公と巨大怪獣)との絡みがあった方が良かったし、それはセリフの対話劇(怪獣が人語を喋らないにしても)を盛り立てる脚本の筆力にかかってくるだろう。
日本映画史最初期の映画監督で日本映画の父と呼ばれる牧野省三は「スジ・ヌケ・ドウサ」という言葉を提唱した。映画の基本はまずスジ(脚本)があり、次にヌケ(撮影技術、映像美術)、それからドウサ(演技)という順で映画作りが行われるとされる。芸大美術学部出身である横川監督は、まず撮りたい画がハッキリしており、また山田果林、浅井拓馬、米山冬馬各氏ほかの美術班同僚にも恵まれて、毎回ヌケについては申し分ない。さらにゴジラやウルトラマンといったメジャーなシリーズの往年の特撮に出演したベテラン俳優陣を揃えて、ドウサも彼らによって支えられている。そして映画を観にくる横川ファンにとってもそれが売り物であり、昔の映画のあの俳優の演技が見られたから良い映画、という好評によって支えられている感が強い。さらにいうと、そうしたメジャー過去映画のセリフや所作のパロディが少なからず盛り込まれているらしく、特撮ファンはそれを見て楽しんでいる。だがそれは二次創作同人イベント的な内輪受けに留まっていて、それ以上の普遍的な高評価にはつながらないのではないか。
(1995年『新世紀エヴァンゲリオン』が放映された年、それ以外にもティーン層アニメファン向けのアニメがたくさん放映されていたが、それらは一部のマニアの回顧を別とすれば軒並み忘れ去られ、エヴァンゲリオンだけが四半世紀以上残った。他の作品は、有名な声優やアニメーター、ライトノベル(ジュブナイル)出身の売れ筋脚本家を起用したからそれの人気にあやかって見るという感が強く、作品そのもののインパクトはなくオタク向けの共通文脈のファンタジーを内輪受けで理解して観るという作品群に終始していたと今になって思う。それほどエヴァンゲリオンの存在が大きかったのだろうが)
あとはそれらの土台となるスジということになるが、まずどうにもそこが弱いという印象が強い。筆者も制作に関わっているスタッフの一人であり、内側からこのような批判的意見を書くのは申し訳ないのだが。
今回は脚本は横川監督だけでなく宇賀神明広という人も共同脚本になっている。キャストにも関わっている俳優業の方で、過去の大手特撮映画にも出演し、今回の舞台挨拶にも出ていた。あと何名かも絡んでいるようだが、おそらくそれらは毎回制作に関わっている特撮畑の仲間筋だろう。
先述の須藤蓮監督の『ABYSS』も途中から外部の脚本家(渡辺あや)に共同脚本を頼んで大幅改作・改題して現在の題名になったというし、一度特撮畑とは関係のない外部の専業脚本家を呼んで、新しい風に吹かれて共同作業してみてはいかがだろうかと思う。
シン・ゴジラ:オルソ
そんなことをつらつら書いていたら、X/Twitterで樋口真嗣監督が『シン・ゴジラ:オルソ』(白黒版)の上映を宣伝していて、たまたま今日は予定が空いていたので、急遽見に行くことにした。
実は庵野秀明総監督のシン・シリーズまだ全然観てません(オイオイと総ツッコミくらいそうだ)。エヴァンゲリオン新劇場版もイタリア語版で2まで見たが3以降まだ観ていないうちに4作目が出て完結してしまった。
それなのになぜ樋口真嗣監督をフォローしているかというと、以前やった「小松左京音楽祭」で筆者は『日本沈没 ドラマ版』(広瀬健次郎)『さよならジュピター』(羽田健太郎)の復元編曲をしており、その音楽祭のディレクターが樋口監督だったからである(彼は2006年版「日本沈没」の監督でもある)。この件、編曲はともかくとして本番直前の曲順入れ替えオーダーでパート譜の譜めくりレイアウトや調号の埋め込み情報が全部入れ替わって全部やり直したりとかなり大変だったのだが、その分やりがいも十分にあり、特に羽田健太郎のオーケストレーションの真髄に触れて感動的な仕事であった。リハーサル開始時は会場の雛壇設置で樋口監督と二人で箱を持ったりして、目の前にいるのがシン・ゴジラ監督や碇シンジの名前の元ネタのすごい人なのに二人で箱抱えたりして申し訳ないとか思っていたのだが、打ち上げ二次会(一次会は筆者は打楽器撤収のため出ていない)の樋口監督の乾杯の挨拶の時に筆者をずいぶん労ってもらって感謝している。
で、その『シン・ゴジラ』も観なければ(初公開時は筆者は日本にいなかった)と思っているうちにコロナになり、まあAmazonプライムとかでも観られるのだがやはり映画館の大画面で見たいのでそのうちにーと思っているうちにどんどん時が経ってしまい、シン・ウルトラマンやシン・仮面ライダーも世に出たのにまだそれらも全然観ていないのは良くないなーと思っていたら、今日このツイートが目に止まった。とはいえ白黒だというし、本来カラーの映画を初見で白黒はどうかなーとは思ったのだが、監督本人が素晴らしいというからには素晴らしいんだろうと思い、ネットで残席わずかだったTOHOシネマズ新宿を予約して出かけた。ちなみにこの記事の冒頭に書いた通りフランスやイタリアの古いコメディ映画が好きなのだが、トトはほとんど白黒だし、ルイ・ド・フュネスも古い時代のは白黒だ(白黒時代は脇役や準主役が多く、主役を張るようになってからのほとんどはカラーだが)。だから白黒映画を見る機会はそれなりに多い。YouTubeで見てるので銀幕ではないが。
上述2作のアンデパンダン映画とは比較にならないすげー画面情報!!!そりゃ日本屈指のタイトルだし東宝もガッツリ予算出してるだろうし自衛隊も協力すればあの画になるのはある意味当然だろう。計器の大写しやゴジラの光線の動かし方などはエヴァンゲリオンで見慣れた庵野総監督の趣味を色濃く感じる。先の東日本大震災を強く思わせるスジなど(初代ゴジラからして終戦直後にあの画を持って来れば空襲や原爆を容易に想起させるのでその路線を引き継いでいるのだろう)、まあそれは今更筆者が言わんでも散々語り尽くされていることだろう。
なので音楽について(それだと別に白黒でなくてもいいじゃんと言われそうだが)。まずこれ独自のテーマ曲ってないのね?タイトルでゴジラの足音の大太鼓がドンドン鳴るのは初代へのオマージュだからそれは良いとして、延々と会議室シーンが続いて、ツチノコみたいのが出てきたところでようやく音楽が流れる。まあそこのはまだいいとして、次にギョロ目で立ち上がる第4形態の時の音楽が安易な金管三和音のオクタトニック上下並行移動で「よくあるホルスト火星もどきじゃん!」と思ってそこでだいぶ冷めた。火星もどきは日本の劇伴の至る所で出てきて、冨田勲も冬木透もそれっぽい曲ばかりなのだが、もう少し他に「カッコいい曲」の表現方法はないのか。(ちなみに筆者が今まで聴いてきた火星もどき劇伴の中では『超獣戦隊ライブマン』のやつがよかった。)
あと他の曲でもそうだが、木管が全然聴こえない。木管は使わない主義なのか、金管と弦だけ派手に鳴ってエレキギターが乗っかればそれでいいのか。エヴァンゲリオンで有名なティンパニの曲のアレンジ違いでメロディを乗っけないいわゆるステムが多用されていたが、いくらエヴァンゲリオンと同じ鷺巣詩郎の音楽担当だとしても、あの選曲は庵野総監督の趣味だろうか。
ゴジラが成獣になって再来するところで伊福部昭の過去サウンドトラックが出てくるが、前奏がやたら長いやつを選んだのには良い趣味だとニンマリした。そもそもゴジラの曲として有名な「ドシラ、ドシラ、ドシラソラシドシラ」は、初代映画『ゴジラ』の冒頭テーマ曲なのだが、あれは初代映画をはじめとする昭和ゴジラシリーズ(の中の伊福部の担当)での音楽設定としてはゴジラに立ち向かう人間側の主題に使われていて、ゴジラそのものの主題ではない。ゴジラの主題は「ラシド、ラシド、ラシド、ド、ド、ド」と上がる方で、テンポもゆっくりである。(『忠臣蔵』でも討ち入りの場面で使われており、画面では時代劇のチャンバラなのにもうゴジラにしか見えなくなる)。それが最初に出てきたのは、庵野総監督、樋口監督どちらの意思かはわからないが、さすがわかってるとしか言いようがない。そのあと「ドシラ、ドシラ、ドシラソラシドシラ」が出てくるが、Sol#だったのは少し意外性がある。あれは過去劇伴の音質っぽくて新録ではないと思うが、どれを選曲したのだろう?
その伊福部パートの選曲センスは良かったのだが、鷺巣パートに戻った途端にまた火星もどきが出てきてドッチラケて、それからエヴァンゲリオンのティンパニに繋がってまた火星に戻っておしまい。エンドロールは伊福部の過去映画テーマ曲がいくつか流れて、ゴジラファンにとってはそれは懐かしいのだろうが、そういう場面でこそオリジナルの音楽を流そうよ。エヴァンゲリオン風でも火星風でもない鷺巣詩郎オリジナルのシン・ゴジラのテーマ曲を!そういうのが何もない、という点では音楽的には残念の一言に尽きる。
エヴァンゲリオンには(主題歌「残酷な天使のテーゼ」とは別に)エヴァンゲリオンを代表する劇伴楽曲がいくつかあって、あれを聴けばすぐにエヴァンゲリオンを思い浮かべられるというロゴマークとして劇伴が機能している。でもまああれもエンディングのFly me to the Moonからして既存曲だし(アレンジが独特でしかも何パターンかあったが)、映画版だと突然「翼をください」が出てきたり、ベートーヴェン第九やヴェルディのレクイエムを派手に使ったと思ったらエンドロールでパッヘルベルのカノンが出てきてドッチラケたりもしたものだけど。
TOHOシネマズ新宿は『ゴジラ -1.0』の宣伝一色だった。11月3日から公開だそうだ。『シン・ゴジラ』もだいぶおくれてようやく観たからには-1.0も観たいという気が沸々と湧いてきた。それに翌日11月4日封切りの別のアンデパンダン映画も観たいと思っているのだが、『HOSHI 35/ホシクズ』の池袋上映が11月2日まで(その後名古屋もあり)とのことなので、一旦ここで記事を区切って投稿する。
(追記)その11月4日封切りの映画はこちら。
『生きない』(蓮田キト 監督)
監督は中学高校の同級生。本名のヨコタシンゴはプロデューサー名義らしい。
こちらも見たら感想を書くつもり。
続記事
映画『ゴジラ -1.0』『生きない』コンサート『宮川泰×羽田健太郎 二人の宇宙戦艦ヤマト』
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