大切なのは、本来の在り方に気づき、見せ方を学ぶこと(通知表廃止から思う)
ブエノスアイレスから帰ってきた。
私はここ最近、別にどの国に行っても心が劇的に動くことはなくなった。
どの場所にいようと、どの文化圏にいようと、自分自身がオーセンティックに生きているような感覚が強まってきている。
一方で、多様な人に会うことで、生きる上でのヒントが得られる。
そのヒントを多く得るために、旅に出たいとも思っている。
日本は通知表社会
ブエノスアイレスから33時間かけて帰国し、
嬉しいニュースを見た。
それは、茅ヶ崎市の小学校で通知表をなくしたというもの。
日本の通知表は、実に包括的で網羅的で人格まで評価する。
私は独特な(手がかかる?)子どもであったため、成績はとても悪かった。
子どもは、評価されれば喜ぶ。
評価されるために自分を変えていく。
そして他者のための人生を生きていき、殻と本質の狭間で人生が他人事になる。そんな人を多く見てきた。
在り方を変えさせようと思うな
あなたは国語ができません、算数は得意です。
ここから、子どもは、「もっと国語ができる人間にならなきゃ」というメッセージを受け取る。
もっとひどいのは、私が受け取った通知表には
「あなたには想像力はあるが、自主自立はない」のように書かれている。
じゃあ、自主的な性格を作らなきゃいけないのかというメッセージを受け取る。
通知表の放つメッセージから、多くの子どもは自分を変えなきゃという理解をする。
社会で生きていくためには…
とかいう反論もあるだろう。
でも、違う。
社会で生きていくために自分を変える必要は、必ずしもないと私は考えている。
それよりも、私は後に話す見せ方が重要だと思う。
本来の在り方に気づく重要性
まず、そもそも、人は本来の在り方(Authentisity)に気づくことが大切だと思う。
自分に自信が持てるようになるし、何より原動力が自給自足できるようになる。評価されなければできない、評価のためにやる、のような「通知表人間」をおさらばできる。
私は、「社会」のために人生をささげるべきという自己犠牲的な考えは好きではない。しかし、原動力が内発的な人ほど、仕事でも活躍できると思う。
評価のためにやる。そんなことをしていれば、部下は上司の期待を超えてこない。あなたの想定するあの人の100点は、あの人の限界を定めている。
見せ方を学ぶことこそ重要
しかしながら、
仕事は自分本位のみでは成り立たない。
それは、人は他者で成り立つ社会から安定という恩恵を享受し、そしてそれは相互主義的にあなたもその「安定」に寄与することが期待されることだから。
変化はもちろん重要だが、それは基盤あってのことである。
安定・日常性などは、人々が豊かに生きるうえで欠かせない。
しかし、だから人々を社会最適化させるべきとはならない。
オーセンティックで自分を大切にする人々がその見せ方を変えれば、
社会は安定を維持できる。
就活で、評価に苦しみ、自分をうまく変えなきゃと嘆く友人を多く見た。
しかし、変えなければいけないのはあり方ではなく見せ方である。
もしビジネスマンなら、ビジネスマンとしてあなたを見せればいい。
ビジネスマン=人間(ちょっと変?)になる必要はない。
もちろん、その両者に大きな乖離があると辛いだろう。
しかし重要なのは、
地位や職業などによってあり方を変え、そしてそれに沿った見せ方をするのでは効率的でも幸せでもない。
本来の在り方を自分で気づき、状況に沿ってあなたの幸せに繋がるようにあなたの見せ方を選択すること。これで、オーセンティックの原動力と、社会の安定への貢献は両立できる。
小学校の通知表はなくせばいい
そして、この自分本来の在り方に気づき、見せ方を学ぶことに教育も貢献する必要がある。
通知表は、在り方に介入しようとしてくる。
小学校の間は特にである。
なぜなら、見せ方を知らない小学生が悪い評価を受ければ、
その子はあり方を変えるしかないからである。
重要なのは、特に小学校の段階では、その子が「他の人と比べて」数学や国語が得意なのかどうかではなく、「自分自身に問いかけて」数学や国語が好きなのかどうかである。
これが自分自身の在り方の気づきに繋がる。
見せ方の勉強は、中学生になったらすればいい。
レポートを見やすくまとめたり、先生に質問したり、このような見せ方は小学生にはわからない。
そして、このような見せ方を学ぶためには、
他者とのコミュニケーション力・対話力を上げる必要がある。
多様な他者の考え方を知り、どうすれば相手に自分を適切に見せることができるのか。プレゼンテーションやレポート、ディスカッションなども効果的だろう。もちろん、勉強してテストで能力を証明してもいい。テストも、能力を見せるための一つの手段である。
もし評価を行うのなら、
それはその人の見せ方の評価だということを常に念頭におくべきである。
そもそも、学校に通知表はいるのか。
通知表の中で最も褒められる人は、全教科できる人である。
全教科できる完璧人間なんて量産する必要ないのではないか。
実際、今生き生きと暮らしていたり、社会で活躍していることと通知表の成績に間に全く因果関係はないと感じている。
中学生は、良い成績を取り良い高校に進学するために、自分を完璧人間に見せる必要がある。しかし、このあり方と見せ方を分離する能力も、まだ中学生には乏しい。そんなことさせるのはだいぶ酷な話ではないだろうか。
自分本来の在り方を起点に、社会での自分の見せ方を考える。
そんな教育になればいいと感じる。
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最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
かなり駆け足で書いたため、言葉足らずが多いかもしれません。
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