修猷館、創立記念講演
母校の福岡県立修猷館(しゅうゆうかん)高校は、今年創立233周年だそうだ。修猷生には耳タコの、天明4年(1784年)、黒田藩の東学問稽古所として開館。アメリカ並みに長い歴史を持つ。
毎年5月の終わりに創立記念行事が行われ、卒業生の誰かが創立記念講演に招かれるのが常だが、今年は僕がそれを拝命することになった。
せっかく実家に帰省するので、少し早めの夏休みを取って家族で帰福することに。丸々1週間休みを取って、金曜の仕事が終わって深夜の便で発ち、翌々週の月曜メモリアルデー(祝日)まで、めいっぱいの福岡滞在8泊11日。
上海経由で福岡入りし、上海経由でロサンゼルスに戻るという、初めての福岡のみの滞在だった。
修猷館高校は、よく私立っぽい名前と言われるのだが、福岡市にある男女共学の公立高校。校長を"館長"、校歌を"館歌"と呼ぶ。校章の六光星は、北極星をかたどったものと言われている。僕が修猷を選んだのは、名前と校章がかっこよかったからだ。
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恩師との再会
福岡空港に降り立つと、何件かたまっていたメールの中に、恩師のお孫さんと思しき人からのメールを見つける。
その恩師とは、まさにこれから僕が講演をする母校の高1のときの担任で、数学を得意にしていた僕に入学早々27点をくれ天狗の鼻をへし折ったその人であり、高1の僕に東大やMITに進学する発想を最初にくれたその人であり、今でも記憶に残っている強烈なお言葉の数々をいただいたその人である。
当時僕は理科1類(略して、りいち)もMITも知らなかったので、三者面談で恩師に「東大リーチか直接MITに行く手もあります」と言われ、全く意味がわからなかった。帰宅して、母と「リーチって言われたね。東大に王手ってことかな?」と会話した。
恩師とは卒業してからずっと年賀状のやりとりをさせてもらっており、2010年の結婚式にご出席いただいたのが、卒業以来10年ぶりの再会だった。
数ヶ月前には、NASAで働く夢が叶ったことを、宇宙のポストカードに書いて送った。すると、数週間後、恩師から封筒が届いた。僕宛ての手紙とともに、昭和44年7月のアポロ11号に関する朝日新聞の記事のコピーや、ご家族でケネディ宇宙センターを訪れたときの写真などが添えてあり、お孫さん二人が現在修猷に通っていることも知った。とても嬉しそうだった。
その恩師が、僕が福岡空港に降り立つ前々日の夜に緊急入院し、ICUに入っているのだそうだ。お孫さんのメールには、5日後の僕の講演まで生きているかもわからない、と書いてあった。ICUでも僕のことばかり話している、とも書いてあった。
引退して何年も経つ恩師だが、僕の講演を聞きに来てくれる予定だったようだ。僕は、荷物が流れてくるのを待つ間、空港のWiFiをつかまえて、もし可能であれば、会いに行きたい、と返事を書いた。
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早速翌日、見舞いに行くことになった。病院に着くと、お孫さん2人とどちらかのお母さんと思しき方がいた。平日だったが、お孫さんは2人とも学校が終わって駆け付けていたようだった。
恩師とは7年ぶりの再会だった。恩師は意識はあるようだったが、酸素マスクをし、しゃべれない状態だった。僕のことを認識していただろうか。もし認識していれば、しゃべれないことがきっと悔しかっただろう。
僕は一方的にいろんな思い出話をした。恩師がもししゃべれていたならば、僕から話すことはなかったであろう話なんかもした。何から何まで話しやがる!と思われたかもしれないが、僕にとってはそのひとつひとつが高校時代を彩る愛すべきピースだ。
恩師が自宅に僕の結婚式の写真を飾ってくれていたことをお孫さんから聞いた。僕は恐縮して照れ笑いしながらも、内心驚いていた。なぜなら僕にとっては数えるほどしかいない恩師でも、恩師にとって僕は数えきれない教え子の一人でしかないからだ。
45分ほど話しただろうか。恩師を疲れさせてしまったか、後半は目を閉じかけていたが、最後に手を握ると、ぎゅっと握り返してくれた。僕は「また会いましょう」と言い、NASAのステッカーと名刺を置いて、ICUを後にした。
お孫さんたちと少し話すと、恩師が緊急入院したとき、僕が恩師に送ったポストカードに書いておいたメールアドレスを見つけて、メールをくれたのだった。僕はお孫さんの行動力に感謝した。
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講演準備くコ:彡
それから4日間、旧友にも会わず、ひたすら講演の準備に取り組んだ。
話したいことは山ほどある。伝えたいことは何カ月も前からイメージしていた。だが時間は限られているし、せっかくNASAのエンジニアが話すのだから、僕にしかできない宇宙の話も織り込まなくてはならない。留学の話も聞きたい子がいるかもしれない。
講演時間は70分+質疑応答10分ということでお話をいただいていたが、正直全然足りないだろう。。
実はこれまでに、下は小学生から、中・高・大・院・社会人まで、いろんな層に向けて講演をしてきた経験があり、資料はある程度出揃っていたりするのだが、今回はとにかくオーディエンスの規模が大きく(1350名!!)、興味もきっと幅広い。スクリーンも大きい。
とにかくできるだけ文字情報を減らしたい。学会発表のような資料ではダメだ。情報を与えるというよりも、インスパイアしたい。
僕の頭の中に当時の講師の話が全く残っていないように、彼らの頭の中にも僕の話はきっと残らない。だから、この講演の目的は、情報ではなくインスパイアだ。彼らの頭ではなく、心に語りかけたい。
そして何よりイカを食べたい。
福岡に帰省したときは、イカだけは譲れない。車を走らせること、1時間半。世界一イカが美味い場所、呼子(よぶこ)。もしこれをイカと呼ぶのなら、ここ以外で食べるイカは別の生物と考えざるを得ないくコ:彡
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創立記念講演
前置きが長くなってしまったが、講演当日。本音を言えば、この日が楽しみだったような、まだ来てほしくなかったような気がしていた。
僕は高校生に講演するのが好きだ。なぜなら反応が素直だからだ。ひねくれた子も素直にひねくれているし、生意気な子も素直に生意気だし、不良の子も素直に不良だ。結局みんな素直だ。
そして、彼ら一人ひとりの中に、ちょっとずつ昔の自分を垣間見るからだ。それが母校の後輩とあってはなおさらだ。
僕(36)の話を聞いて、"僕"(18)は何を思うだろうか。"僕"(18)は、僕(36)を見て憧れてくれるだろうか。
母校の創立記念式典という舞台で講演ができる機会はおそらくこれが最初で最後だろう。だから、この日が楽しみだったような、まだ来てほしくなかったような気持ちは、高校生の"僕"に会って「見ろよ、お前の夢、叶えたぜ」と言える歓びと、最初で最後のこの機会に、もっと完成された僕で会いたかったという気持ちの、ないまぜだった。
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講演の約1時間前に母校に到着すると、高校時代の恩師の一人I先生が迎えてくれた。I先生は、これまでの創立記念講演の前例を破ってこの未完成の人間を呼ぶという挑戦的な企画の発起人でもあった。
過去には内閣総理大臣まで招かれたこともある舞台だ。もしかしたら賛否両論あったかもしれない。「若すぎる…」「未熟すぎる…」など、否定的な意見があっても全然おかしくない。もしそんなことがあったとしても、I先生はおくびにも出さなかったが――。
I先生の案内で、いったん会場でもろもろセットアップした後、応接室へ。歴代館長の写真やトロフィーがずらーっと飾ってある。こんな機会でもなければ、応接室に通されることなど、そうそうないだろう。
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舞台袖で講師紹介を待つ。I先生に「緊張してるか?」と聞かれ「いえ、全然してません笑」と答えた。緊張は全くしなかった。いつにも増してリラックスしていた。むしろ、わくわくしていた。これがホームというものか。
「講師、紹介」
僕は、1350名の視線の先へ出て行った――。
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ここから先は見ていただく方が早いので、修猷のご厚意で映像記録を共有していただき、YouTubeにアップロードした。プレイリストはこちら。長いので4つに分割されている。また、講演資料が見えづらいときは、こちらをご参照いただければ。
講演に来れなかった恩師、生徒、友人に雰囲気だけでも伝われば幸いだ。
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Part 1
自己紹介 ~ ウォーミングアップ宇宙編
Part 2
NASA JPLでのお仕事 ~ 火星開発競争 ~ 進路の話
Part 3
修猷時代 ~ MIT留学 ~ 博士研究『宇宙にガソリンスタンドは必要か』
Part 4
夢を叶えるために ~ 今、高校生のときの自分に会ったら
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終わってみれば、もともと与えられていた講演70分+質疑応答10分を大幅に超える88分もしゃべってしまった汗。予定されていた質疑応答をまるまる潰しただけにとどまらず、みんなの昼休みにまで踏み込んでしまった。。
あの場で質問したかった子、まじでごめん!話したいことがありすぎた!
そんな僕の暴走を止めず、柔軟に臨機応変に捌く修猷の懐の深いこと。。
応接室に戻って、館長とI先生と昼食を取った後、しばしの休憩。僕は応接室を抜け出して、構内を散歩して回った。
僕がいた時代とは、何から何まで建て替わっていたが、僕の記憶に淡く残る、あの"風の吹き抜ける感"は変わっていなかった。
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懇談会
質疑応答を潰してしまった償いというわけではないのだが「午後の部」として大講義室でひたすら質疑応答をやる懇談会を開いた。NASAのステッカーを宣伝しておいた効果か、大講義室のキャパシティを優に超える、200人以上の生徒たちが参加してくれた。部活もあるから、自由に出入りしてもらった。
宇宙の疑問、宇宙開発の意義、生徒の進路の話、僕の進路の話、生徒の夢、僕のこれからの夢。質問の内容はあちらこちらに飛び回りながら、1時間半にわたって途切れることなく続いた。
この感じ。僕が好きなのは、この感じだ。真っ直ぐな質問をする子、賢い質問をする子、鋭い質問をする子、面白い質問をする子、笑いを取って盛り上げてくれる子、絶好のフリで笑いを取らせてくれる子、僕の答えが拙くても伝わる物分かりの良い子、僕の答えが的外れだったらちゃんと食い下がる子、質問する勇気が出ない子。
1時間半で切り上げざるを得なかったが、こんなの楽しすぎて何時間でも続けていられる。時間が許せば、質問が尽きるまで続けていたかった。
一番最後「宇宙人はいるのか」という話になったので、僕がちょうど前日空想に耽る中でふと思い付いていた「宇宙人、本当はいないんじゃないか」説を唱えて、お開きにした。僕はオープンクエスチョンで会を終えるのが好きだ。この仮説については、また何かの折に書こうと思う。
※後日、書きました。→「宇宙人、本当はいない?」
会終了後は、それでもまだ話したい子たちが僕の元へやってきた。何人かにサインまで頼まれたが、芸能人みたいなかっこいいサインなど考えていないので、クレジットカードの支払い用のサインをしてあげた笑。
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職員室にご挨拶をし、館長にご挨拶をし、色紙に揮毫を頼まれたがすぐには思い付かず持ち帰りとさせてもらい、修猷を後にした。帰りはI先生に僕の大好物・一蘭の剛鉄麺をご馳走していただいて、帰路についた。
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僕の姿は、"僕"の目にどう映っただろうか。
僕の言葉は、"僕"の心にどう響いただろうか。
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あとがき 1
実家に帰り付いて、どっと疲れが出た、燃え尽きた感覚。もっとうまくやれたところは、振り返ればいくらでも出てくると思うが、僕が高校を出てから、今現在に至るまでの軌跡と、その道のりで得てきた哲学は、すべて置いてきたので、これにていったん区切りを付けたい。
これから先のステージで、同じやり方、同じ哲学が通用するかはわからない。次の夢に向けて、僕は僕を一度リセットしたい。
新しい芽を出すために、僕は僕を一度土に還したい。
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講演には西日本新聞の記者さんが取材に来られ、翌日の新聞で取り上げていただいたようだ。「NASA石松さんが母校で講演」したからといって、記事にするほどのことでもないのだが、2月に同紙で取り上げていただいたご縁あってのことだろう。「他力」と「決定力」の話など、初めて聞く人には??となるような話だったのではと思うが、一度聞いただけでよく正確に端的にまとめられるなぁと感心。プロフェッショナル。
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妻は高校の同級生でもあり、妻の実家も福岡にあるので、子供たちはいつも1箇所の帰省で4人のじいじ・ばあばに会うことができる。帰省が1箇所で済むのは経済的にもありがたい。地球の裏側に住む僕らにとってせめてもの救いだ。さらに今回は、里帰り出産をしていた叔母(僕の妹)と生まれたばかりの従兄弟にも会うことができた。
僕は8泊11日でロサンゼルスに戻るが、妻と子供たちは約1ヶ月滞在する予定だ。また少しの間、モノクロ単身赴任生活。でも、この4ヶ月育児と家事と生活のセットアップに専念した妻には、実家でゆっくり羽を伸ばしてほしい。
…と思ったら、子供二人連れて東京にも行ってくるとか言い出す始末。。友人たちのお宅を訪ね歩いてくるそうだ。なんてパワフルなやつ。。大人一人で、子供二人を連れてどこかに行くというのは、それが近所の公園であっても、それだけで一仕事だが、地球の裏側に住む妻にとって、もはや東京は「福岡の近所」でしかなく、一仕事でしかないのかもしれない。
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帰りの機内でフライトマップを見ていると、上海からロサンゼルスに向かう便が福岡の上空をかすめていった。午前9:45に福岡空港を発ったのに、午後4時頃福岡の上空をかすめるって、早朝出発何やったん。。
ロサンゼルス–福岡の直行便できないかなぁ。MIT時代、ボストン–成田の直行便を切に願っていたら、本当に願いが叶ったので、今度もきっと叶うはず。そしたら、6時間長く寝られる。
★★★
あとがき 2
注:ここから先は長いですが、たいしたことは書いてません。あまりに気が抜けすぎて、ロサンゼルス空港でやらかした話。
ところで帰りは散々だった。
まず福岡空港で、スーツケースが重量オーバーで16,000円の超過料金と言われ、慌てて荷物を詰め替える。妻が大量に買って僕を運び屋にしているシャンプーだの洗剤だのが重すぎるのだ。僕が博士号まで取った「必要なものは現地調達せよ」の教えが全く活きていないブツブツ
スーツケースと布製のバッグにどうにかバランスよく詰め替え、再度荷物検査を通して、チェックインカウンターに行くと、今度はパスポートがない。慌てて探す。一度閉めたスーツケースとバッグを全部開ける。パスポートはあった。荷物は再度荷物検査を通す。何とか無事出国。。
ロサンゼルス空港に到着。ターンテーブルに流れてくる布製のバッグが破れている。しかも濡れている。中で詰め替え用洗剤のひとつに切れ目が入り、バッグ内に洗剤が飛び出ているようだ。。柔らかい香りがプンプンしている。税関を通るとき「ん?何だこの匂いは?お前、ガールズシャンプーでも使うのか笑」とからかわれ、「まぁそんなとこだ。。」と答える。
バッグを床に置くたびに、洗剤が染みて床が濡れるような状態なので、とりあえず応急処置をしようとトイレに駆け込んでバッグを開けてみるも、もう手が付けられないくらいにぐちゃぐちゃだった。僕は応急処置を諦めた。
外に出て、シャトルバスを呼ぶための電話番号が書かれたチケットを財布から取り出し、電話をかける。そして重い荷物を引きずるようにして、指定の場所まで歩いた。ふーっ。やっと到着したと思ったら、知らない番号から電話。
取ると、いましがた乗ってきたエアラインからの電話で「忘れ物があるわよ」とのこと。「僕は全ての荷物をピックアップしたはずです」と答えると、「いえ、これは間違いなくあなたのよ」と言うので、また重い荷物を引きずってエアラインのカウンターまで行った。
するとカウンターで僕を待ち受けていたのは、福岡空港で機内持ち込みすることにして、機内で上の棚に入れ、そのまま忘れて降りてきてしまっていたデジタルビデオカメラだった。幸い、カメラバッグの中に僕のJPLの名刺を入れていたおかげで、エアラインの人が携帯に電話をかけてきてくれたのだ。
僕はビデオを受け取って、また重い荷物を引きずり、今度こそ指定の場所に着いた。ふーっ、と一息ついた瞬間、ふと嫌な予感が。財布がないことに気付く。いや、まさかね。。ポケットには・・・ない。リュックにも・・・ない。焦る。落ち着け。焦る。落ち着け。
どれだけ探しても見つからないので、今来た道を戻って探すしかない。シャトルバスの運転手に電話して「財布をなくしたので、いったん僕のことは忘れてくれ」と伝え、僕は長旅に出た。「何重苦!」と心の中で叫んだ。
1時間歩き回って探したが見当たらなかった。スられた感触はなかったので、おそらくどこかに落としたのだが、すでに誰かが拾ったかもしれない。良い人ならどこかに届けているだろうし、悪い人ならもう返ってこないだろう。僕は諦め、シャトルバスに再度ピックアップをお願いし、家路についた。
クレジットカード、キャッシュカード、グリーンカード、運転免許。これらは再発行をかける必要がある。クレジットカードはその日中に連絡を入れた。1万円ほどのキャッシュはもうこの際どうでもよいが、僕が昨年夏に単身渡米する前日に娘からもらった手紙。それが一番悔しかった。
その夜、財布が見つかった夢を見た。が、夢の中で「これは夢だ」と気付いた。だけど、夢から覚めるときに財布をしっかり握っていれば現実に持ち帰ることができる気がした。僕は財布を強く握りしめながら夢の世界を後にしたが、案の定夢から覚めた僕の手には何も握られていなかった。
翌日は、早速出勤。クレジットカードの再発行は、一番速いアメックスでも数日かかる。当面飲み食いするためのキャッシュが必要だ。僕は友人の小野に電話をかけ、事情を話してお金を借りた。
さらに翌日、職場でグリーンカードと運転免許の再発行を調べてみた。免許は数十ドルでできそうだが、グリーンカードが$540もかかることがわかった。入国を済ませた後でなくしたのが不幸中の幸いか。しかし、こんなに高いんだ。。僕は、改めて落胆した。
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しばらく悩んだ末、僕はロサンゼルス空港のLost & Found (落とし物係)のウェブサイトを訪れてみた。そこには、落としたものの細かい説明を書いてレポートを提出するフォームがあった。ここはアメリカだ。どうせこんなもの、ブラックホール(誰も見てない、返事来ない)に決まってる。。
でも、グリーンカードは当面急ぎじゃないし、$540払う前にダメもとでレポートくらいはやっておくか。そう思い、やっつけ仕事で財布の説明を書き込んでゆき、提出ボタンをクリックして、そのまま30分ほど失意のうちにうたた寝してしまった。
目が覚めると、1通のメールが入っている。ロサンゼルス空港の落とし物係だ!「あなたの描写する財布、たぶんあります」
・・・え?・・・あります!?・・・あるのか!?
僕はすぐ電話した。電話に出たのは空港警察の女性。僕が改めて口頭で財布の説明をすると「あるわよ」とおっしゃるではありませんか・・・!!すぐ取りに行きたいが、空港までの渋滞を考えると、その日はもう間に合わない。というわけで翌日取りに行くことになった。
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かくして財布は本当にあった。それも中身まで全部。キャッシュだけは、別の空港警察署に保管してあるということで、理由は分からないが、そちらにキャッシュを取りに行くことに。
キャッシュも1セントたりとも欠けることなく返ってきた。なんということだ。ここはアメリカだぞ。落とした財布が返ってくるなんて、世界でも日本しかあり得ないと思っていた。
財布を回収した帰りの車中は、基本的にガッツポーズしてたよね、おれ。
空港警察が作成した調書。拾われた場所や日時や財布の中身が本当に事細かに記載してある。こんな仕事ができるのか、空港警察!かっちょい~!
そして拾ってくれたのは、Unk(nown) Citizen。見知らぬ市民。名乗らなかったのだろう。あぁっ、せめてお名前だけでも!Unk Citizenさま!