
【水晶】向山鉱山(御巣鷹山水晶鉱山遺跡)の水晶
向山鉱山は現在の甲府市上帯名村に所在した水晶鉱山で、現在では御巣鷹山水晶鉱山遺跡として近世~近代の生産遺跡に位置付けられています。
向山鉱山の水晶は金峰山系の水晶の代表格であり、向山鉱山は山梨の水晶産業を支えた重要な鉱山です。
今回はこの向山鉱山と向山鉱山産水晶の歴史について解説します。
御巣鷹山水晶鉱山遺跡の登録については過去の記事をご覧ください。
先史時代
旧石器時代
山梨県北杜市、中央道上り八ヶ岳PAの地中には横針前久保遺跡という遺跡が眠っています。
この遺跡は山梨県内で最古級の約3万年前の遺跡です。
横針前久保遺跡からは試掘時の1点を含め12点の水晶石器(1点は台形様石器)が見つかっています。

(https://sitereports.nabunken.go.jp/6407)
この水晶石器は山梨県立考古博物館と北杜市考古資料館で所蔵しており、北杜市考古資料館では常設で展示されています。
以前、横針前久保遺跡や他の旧石器時時代遺跡から出土した水晶石器の原産地推定について紹介していただきました。
山梨県立考古博物館に収蔵されているものも含め、7点から赤外スペクトルを得ることができ、5点が向山、1点が梓(長野県川上村)、1点が判別不可という結果になりました。
向山の水晶が旧石器時代から利用されていることがわかりました。
縄文時代
縄文時代、甲府盆地の遺跡から出土している水晶はほとんどが竹森産であったことを以前の記事で紹介しました。
向山の水晶も数点は確認できていますが、甲府盆地の中では主体的ではありませんでした。
一方で、向山から数kmの甲府市上黒平に所在する判平(はんべら)遺跡では、向山の水晶が利用されていました。
分析できた石器15点のうち、10点が向山の水晶だと推定されています。

江戸時代
1752年の『裏見寒話』以降、金峰山で水晶が産することが古文書に記されるようになります。
しかし、この「金峰山の水晶」に「向山(御巣鷹山)の水晶」が含まれているかは定かではありません。
確実に向山(御巣鷹山)であることがわかる古文書は文政年のものが確認できています。
『甲府市史』によると、1826年(文政9年)に「西保北原村(現在の山梨市)の百姓が向山の水晶を盗掘した」ことをきっかけに山を管理する黒平村・帯名村と西保村で管理に関する対談を行った古文書『水晶盗掘ニ付御巣鷹山ニ相掛候儀対談書』が残されています。
文政の次の暦である天保年間には御嶽で水晶加工が始まったと考えられ、その水晶を供給したのが上帯名村の向山でした。
御岳での水晶加工については過去の記事で紹介していますので、詳しくはこちらの記事をご覧下さい。
ちなみに、縄文時代の遺跡として紹介した判平遺跡からは江戸末期か明治初期のものと考えられる、研磨された水晶も発見されています。
これが御嶽村で加工されたものか、遺跡のある黒平村で加工されたものかはわかりませんが、水晶の加工が周辺地域で行われていたことを示す貴重な資料となっています。

明治時代
1873年(明治6年)7月20日に日本で初めての鉱業に関する法律である日本坑法が制定され、同年11月5日には向山での水晶試掘願が提出されています。

(国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/3013265/1/1)
この、明治初期に向山鉱山として開発が始まったことまでは明らかになっていますが、明治中期以降の詳細はほとんどわかっていません。
定説を紹介しておきますと、明治30年頃から金峰山を水源とする荒川がたびたび甲府で洪水を発生させ、その原因のひとつとして水晶鉱山開発が指摘されました。
そして、1897年(明治30年)に制定された砂防法と森林法に基づいて1903年(明治36年)に鉱山一帯の地域が水源涵養林や土砂防止保安林に指定されると、鉱山開発で利益が得られなくなり、次第に鉱山は閉山していったと考えられています(『水晶宝飾史』など)。
薬種商であり水晶の収集・鑑定に携わっていた百瀬康吉は1934年の『水晶』の中で次のように述べています。
明治30年以後になつつて本県下には水害が非常に多く、全国でも最も甚だしい所となつた。そこで河筋の鉱山は水害防止の策として掘ることを禁ぜられた。続いて明治43年御料林の御下賜となり県林となり、県は之を保安林に指定したので如何に鉱物が有つても手をつけさせぬ様になつた。
御料林とは皇室の財産林を指し、これが皇室から山梨県に御下賜されたと書かれていますが、正しくは1911年(明治44年)で1年ずれています。
いずれにせよ水晶鉱山開発を禁止したために水晶は産出を見なくなったということになります。
ここから先は
¥ 200
いただいたお金は研究や博物館活動に使います。そのお金を利用した活動のnote記事を掲載した際には、謝辞としてお名前を掲載させていただきます。サポートいただけると飛んで喜びますのでよろしくお願いします!