#3 プロのレーシングドライバーになるまでの道のり Part3(最終話)
さて、今回は#3 プロのレーシングドライバーになるまでの道のり Part3の話になります。
レース人生第2章の始まりです。
■2013年(25歳)
の時、大きな決断をします。
スーパーGTに参戦しないという決断です。シーズンオフの段階で何チームからかはお話しを頂いていたのですが、契約条件がその時の僕には厳しい条件だったので乗らないという選択をしました。
なので、2013年はGAZOO Racingからニュルブルクリンク24時間レースに参戦する事がメインイベントで、スーパー耐久にGAZOO RacingからTOYOTA86でスポット参戦をさせて頂き、それ以外の日は自動車メーカーの研修に参加し、イベント前の洗車から始まり、先導しながら新型車の訴求ポイントを伝えるというお仕事をしていました。
そんな中、私に第3の転機が訪れます。
やはり、スーパーGTへの想いは強くあり、開幕戦からJsportでスーパーGTのレースを見ていました。まだ、夏の鈴鹿1000㎞レースがある時代です。長いレースになるので、鈴鹿1000㎞レースで第3ドライバーで走れるチャンスはないかと模索しました。
偶然にもニュルブルクリンク24時間レースに行っていたことで、STI(スバルテクニカインターナショナル)の方と顔見知りになる機会がありました。
その時はサーキットで挨拶をする程度でしたが、FACEBOOKでお友達になっており、どうやって連絡を取っていいか分からなかったので、その方にFACEBOOKのメッセンジャーを使って鈴鹿1000㎞レースで第3ドライバー探してませんか?と連絡を取ったのがきっかけです。
今でもその内容がメッセンジャーの中に残っていました。
「お疲れ様です。ドライバーの井口卓人と申します。突然のご連絡で失礼致します。スーパーGTの件でメッセージを送らせて頂きました。鈴鹿1000㎞レースの第3ドライバーなどは探していたりしますでしょうか?もし、可能でしたらお話だけでもさせて頂きたく思っております。どなたに連絡して良いかもわからず〇〇さんにご連絡させて頂きました。宜しくお願い致します。」
そうすると
「メッセージありがとうございます。私が判断できる内容ではないので、明日総監督に確認して連絡します」
と返信いただきました。
この連絡がきっかけで、数日後には三鷹にあるSTIへ行き辰己総監督にお会いし、鈴鹿1000㎞レース本番前の合同テストで走らせてから本番のレースで使うかどうかを判断する。という事になりました。
走らせてもらえる機会ができた。これだけで私にとっては大きな出来事でした。
合同テストでは、多くの走行機会を頂いてロングランの走行を中心にBRZの理解度を高める事ができました。
#2 プロのレーシングドライバーになるまでの道のり Part2で書いた通り、評価は自分でするのではなく人がしますので、テスト後は本番のレースで乗れるかどうかというのは分からない状況でしたが、数日後に連絡をいただき鈴鹿1000㎞レースの本番に第3ドライバーで登録して頂けることになります。
その連絡をもらった時はテンション上がったな~
まだレースに出たわけでもないのに乗れることが決まっただけで、蒲生選手と一緒に当時住んでいた御殿場の街に飲みに出かけた記憶があります。笑
その後、鈴鹿1000㎞レース本番では山野選手、佐々木選手が予選でポールポジションを獲得し、決勝はスタート佐々木選手→井口→山野選手→井口→佐々木選手でチェッカー。私は2回のスティントを走らせて頂きました。
車とタイヤとの相性も抜群で、BRZがデビューして初めての優勝に関わらせて頂く事ができました。
鈴鹿1000㎞レースでの優勝。これが私の第3の転機だったと思います。
■2014年(26歳)
この優勝の翌年2014年(26歳)スバルチームのレギュラーシートを獲得。
こうして、私のレース人生第2章が始まります。
2014年は佐々木選手と一緒に戦い優勝1回、2位1回で(シリーズランキング5位)
2013年、2014年はミュシュランタイヤで走らせてもらいました。
■2015年(27歳)から2024年(36歳)
2015年から2024年は山内選手と共にSUBARU BRZでダンロップタイヤを履きレースをしています。
SUBARU BRZ歴11年目。
11年間の濃い内容の話もしたいのですが「プロのレーシングドライバーになるまでの道のり」と言うタイトルの記事だですごい量になってしまうので、また今度ゆっくり書きたいと思います。
こんなに長く、1つのチームで走る経験は初めてですし11年も一緒にやっていれば、もはや家族です。
その歴史が、スバルチームのチームワークを生んでいるのだと思います。
11年もやっていれば、良い時もあれば悪い時もあります。
なんなら、悪い時の方が多かったです。
その中でも、誰も離れる事なく優しく見守ってくれたファンの皆さんがいたので、高いモチベーションを持って戦えました。
辛い時を一緒に乗り越えたからこそ、チームもドライバーもファンの皆さんが喜んでもらえる結果を出したいと強く思って戦っています。
それが形になったのが、2021年(32歳)スバルで乗り始めて8年目のシーズンでスバル初のシリーズチャンピオンを獲得できた事です。
チャンピオンを獲った嬉しさもありましたが、どちらかというと大きく肩に乗っていた重圧が少し軽くなりホッとしたと言うのが1番大きかったです。
私は、幸運な事にSUBARU BRZの初優勝、SUBARU BRZ初のシリーズチャンピオンに関わらせて頂きました。
これも、#2でお話ししたマカオGPで一緒に走った選手が凄かったんだぞ。以来のお酒を飲んで気持ちよくなったら自慢したくなる出来事パート2である。笑
2011年(23歳)のGT500に乗って以降、今現在に至るまでメーカーとの契約金や様々な活動においてお金を頂いていて、プロドライバーとして生活できています。
今思う事は、、
・諦めたらそこで試合終了と言う事。
・常に感謝の気持ちを忘れない事。
(特に苦しい時に支えてくれた人に対して)
この思いを持って日々過ごしています。
プロのレーシングドライバーとして結果にこだわりファンの皆さんに笑顔を届ける事が1番の仕事だと思っていますが、もう一つはレースキャリアで私が得た経験をいい車づくりに活かして皆さんに広げていく番だと思っています。スーパー耐久の活動もその一部です。
誰が乗っても乗りやすい。そして運転が楽しい車が未来に溢れたら嬉しい。そんな思いで、引き続きステアリングを握っていきたいと思います。
3つに分けてお話しした「プロのレーシングドライバーになるまでの道のり」いかがだったでしょうか?
私の挑戦はまだまだ続きます!
■レース人生で最も重要な話
そして、ここからはプロのレーシングドライバーになるまでの道のりで特に大きな意味があったスーパーGT以外の話。
私にとっては人生で1番重要な話をしていきたいと思います。
私はスーパーGTだけでプロのレーシングドライバーとしてやってこれた訳ではありません。
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