お金を稼ぎと結びつかない趣味を持ちたい
私はお金と結びつかない趣味を持ちたいです。一般的に「生産的な趣味を持て」と言われることが多いですが、それは間違っていると私は考えているからです。私は今20代後半ですが、そうしなければ例えば80歳ぐらいになったときにもう人生を楽しめないだろうと思うのです。そのときには、お金持ちになることが意味を持つとは思えず、そのため「これでお金を稼げたら良いなあ」と感じている趣味はほとんど自分にとって楽しめないものになっているでしょう。そんな危険な未来が見えています。
本記事は、そんな私の個人的な悩みに対する記述を、備忘録的にまとめたものです。あまり共感を呼ぶ話だとは思えませんが、誰かの参考になれば幸いです。
前提として、私達は、資本主義の社会に生きています。ここは、お金を稼ぐことが基本的には正義とされています。これがもっと昔であればお金というよりは、権威を持つことが重要だったでしょう。そのため、過去、貴族たちは大きな屋敷を立てて、着飾って権威を持っていることをしめしました。しかし、現代のお金持ち、すなわち上流階級の方々を見ていると、必ずしもそうであるようには見えません。彼らは、むしろ素朴な服を着て、素朴な生活をしているようにすら見えます。それは着飾って、大きな家に住んでもお金は増えたりはしないからです。資本主義の世の中ではお金を増やすことが正義ですから、豪華な生活は必要がないのです。
では、お金持ちは一体何にお金を使っているのでしょうか。おそらく、広い意味での投資に時間を使っているのだと思います。私が「これでお金を稼げたら良いな」と考えている趣味も広い意味での投資にあたります。ここで言う投資とはそういう意味です。現代に置いて、投資よりも効率的にお金を稼ぐ方法はないでしょう。これは、私の意見というよりは、多くの本の中で言われていることです。本についてはそもそも「本を読むことが投資である」という方もいます。
端的に言って、繰り返しになりますが、私が「これでお金を稼げたら良いな」と考えている趣味をしているのは投資だからです。ということは、私の中で、趣味=投資=「資本主義によって肯定さていること」という式がなりたちます。すなわち、本来個人的なものであるはずの趣味を、誰かに肯定されるから行うこととしてやっているのです。私にとってそれは他者から支配を受けているような感覚があって、本来めざすところではありません。しかし、小さい頃から、親から、先生から、親戚から、社会から「褒められること」を一種の安心装置として利用してきた私は、なかなかこの呪縛から抜け出すことができません。
では、どのようにすれば抜け出せるか、と考えたとき、抜け出すことはほとんど不可能である、と今の私は悲観的に結論づけました。それこそ自分の欲望にウソを付くことになりますし、事実として、お金を稼ぎ、消費し、税金を払うことはそれだけで立派な社会貢献だからです。
このように考えると、結局私にとって趣味とはお金を稼ぐことである、と考えることができます。そこから他者の目を気にしないように抜け出そうと考えることこそが、反対に他者の目を気にした行為である、という図式です。
将来的には飽きるほどのお金を稼ぐことが理想です。そうすることで、お金に対する執着は飽きて解放されることでしょう。これは、あまり現実的な道ではありません。しかし、その未来を想像し、活動するだけで楽しいですし、その過程でお金より楽しいものが見つかればあっさりとお金に対する執着を捨てるだけのことです。道半ばで敗れ去ったとしても、何かに取り組んでさえいればきっと見えるものがあるのだろうと私は信じています。いや、信じたいと思っています。