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団塊ジュニア世代が見てきた東京メンズファッション30年史⑤

ファッションは20年周期で繰り返す説

ここ数シーズン話題のY2Kファッションやジーンズ人気を見ていると、”ファッション20年周期説”という言葉を思い起こす。実際、当事者として2000年代のプレミアムジーンズ人気を通過してきたからこそ同意できる。多少のタイムラグはあるが、数年前に巻き起こったスニーカーブームと急激な沈静化も含め、あの頃と似ている。その周期は単に円を描いているのではなく、螺旋を描くのだとも言われるが、それも言い得て妙である。共通して繰り返すアイテムやスタイルはあるけれど、生産背景や社会情勢が異なるから、もちろん全く同一ということはない。そんな訳で、当時のことを思い出すことができるように、2000年代は1年ごとに追っていくことにする。

2001年

9.11テロ以降も堅調だったファッション業界

「おい、NYですごい飛行機事故が起きたぞ!」と先輩が声を荒げた。テレビでその映像が流れるということで、編集部で残業していた皆がテレビのある営業部のフロアへと駆けつけた。そして、ワールドトレードセンタービルに旅客機が突っ込む、映画のワンシーンのような動画がブラウン管に繰り返して映し出された。連日この事故というか事件が繰り返し報道され、ほどなくして首謀者と目されたオサマ・ビン・ラーディンの名が取り沙汰されるようになった。サミュエル・ハンチントンによる『文明の衝突』(1996年)が大きく取り上げられ、10月に臨時増刊された『現代思想』には「これは戦争か」という物々しいタイトルが付けられた。第三次世界大戦のような最悪の事態につながるかも知れないという不安もあったし、保険業界と航空業界は大きな損害を被った。
 
もちろんファッション業界も例外でなく、LVMHの純益は2000年の7億2200万ユーロから、2001年には1000万ユーロまで激減してしまう。だが、世界経済は驚異的なV時回復を果たし、ファッション業界もその歩みを止めることなかった。ちなみに2006年のLVMHの純益は21億6000万ユーロを記録し、現在までパリ証券取引所では時価総額最高である。コロナ禍においてもラグジュアリーブランドが増収・増益を続けていることを鑑みると、既に高級ブランドは不況やテロに強いビジネスでもあることが証明されている。

世界経済成長率を見ても、9.11テロよりもリーマンショックの方が影響が大きいのは意外だ

当時のインターネットの普及はかなり限定的で、一部のオタクや物好きばかりだった。そんな中でボーナスを手にした私は、いち早くMacパフォーマを購入。ニフティでメアドを取得して、世界の最新情報にアクセスしようとしていた。そのため、一人住まいの我が家では夜中にピーピー、ガーガーという接続時のノイズが流れていた。けれど、期待していたファッションや音楽に関する情報は、さほどネットには出てこなくてがっかりしたものだ。期待していたエロ画像(静止画)ですら、表示するだけで何分も待たなければなかった。ちなみに電話線を使ったISDN回線は2024年に完全終了する。

レオンが「ちょい不良オヤジ」を発明

グッチ、プラダ、ドルチェ&ガッバーナといったイタリアブランドは、これまで先端モードとして取り上げられていたパリのブランドとは明確に異なり、コマーシャルでウェアラブル(=普段の着こなしに取り入れやすい)なことが日本の男性に受け入れやすいポイントだった。こうしたブランドをいち早く取り入れて成功したのが、雑誌LEON(レオン)だった。世界文化社に入社後、ビギン、Car EX、MEN’S EX、時計ビギンといった雑誌に携わり、数々の実績を打ち立てた岸田一郎編集長が、主婦と生活社に入社後の2001年に創刊した。
 
新富裕層をターゲットに、イタリアのラグジュアリーブランドを取り入れたファッション、高級車、高級時計を組み合わせた提案が大ヒット。スーツを主体としたコンサバ系ファッションに、イタリア流のセクシーさを加えることで「ちょい不良(ワル)オヤジ」というキーワードを発明。それまでのコンサバ系ファッション誌では禁忌とされていた“モテ”という単語を堂々と謳い、若い女性を侍らす金持ち中年男性というコンセプトを確立。ファッション好きな若者のことを小僧と名付けて差別化し、従来はネガティブワードだったオヤジをポジティブに捉えたことも斬新だった。
 
こうした毒のある手法は、根っからのトラッド好きやイタリアクラシコ好きからは反感を買うものの、誌面で紹介されているイタリアブランドの服や小物に、読者からの問い合わせが殺到するように。“モテる”をキーワードにした、ある種ぶっちゃけたとも言えるレオンの手法に懐疑的だったラグジュアリーブランドのみならず、メイド・イン・イタリーのアイテムを取り扱う商社やインポーターもこの快進撃には抗えず、やがて広告出稿をするようになり、ブランドと雑誌の好循環が生まれる。艶っぽい高価な服を着て目立ち、若い女を抱きたいという男性の潜在的な欲求を、ユーモアを交えながら提案する切り口は、ジローラモという看板モデルを誕生させることで完成した。
 
以後も、“ちょい不良”ブームはテレビでも取り上げられるようになり、安定した部数を叩き出した。また、これまでの英米トラッドとは異なるイタリア流の着こなしやイタリア国内の優れたファクトリーブランドを数多く取り上げ、日本人のファッション偏差値上昇にも大きく寄与したことは疑う余地はない。この快進撃は2010年代まで続き、現在も根強い読者に支えられている。ちなみに、当時からレオン編集部で頭角を現わし、現在ファッションディレクターとして活躍中の干場雅義と同誌の広告営業部長は、私が勤務していたワールドフォトプレス時代の先輩でもあった。

裏原ムーブメントの隆盛期

 一方、レオンからは小僧と揶揄されたストリートキッズは、90年代初頭に生まれた裏原ムーブメントの最後の盛り上がりに夢中だった。月9ドラマ『HERO』でSMAPの木村拓哉が着用したア・ベイシング・エイプのダウンジャケットが大反響を呼んだのもこの年。佐藤誠二朗による『ストリート・トラッド』(2018年:集英社)という著書の“裏原キッズ”の章から引用して、“裏原”の成り立ちをここに紹介しておこう。
 
「1986年、日本でいち早くステューシーを取り扱っていた静岡のサーフショップ、ジャックからショーン・ステューシーを紹介された音楽プロデューサーの藤原ヒロシは、連載を持ち懇意にしていた『宝島』で、彼のインタビューを企画する。これをきっかけに藤原は、ショーン・ステューシーの友人=インターナショナル・ステューシー・トライブの一人になる。(中略)ストリートシーンの最先端とつながった藤原は1990年、スケーターでグラフィックデザイナーのスケートシングこと中村晋一郎とともに、ステューシーの手法にならったストリートウェアブランド、グッドイナフを立ち上げる。(中略)藤原がステューシーから学んで日本に持ち込み、グッドイナフで実践したストリートウェアの最新カルチャーを、年下の友人であったジョニオこと高橋盾と、NIGOこと長尾智明が引き継いだプロジェクトなのだ」

裏原ブランドが ストリート誌の常連に

先行して1990年にブランドをスタートさせていた高橋盾による「アンダーカバー」に続き、NIGOが「ア・ベイシング・エイプ」(1993年)を立ち上げると、ほぼ同時期に「ネイバーフッド」「へクティク」「レット・イット・ライド」「フェイマス」「スワイプ・オン・ザ・クワイエット」といったブランドが次々と誕生していた。こうしたブランドの新作がスマートやアサヤンといったストリート誌で紹介されるたびにショップには行列ができた。どのブランドも小規模だったため生産数が少なく、ファンは原宿のショップに足繁く通い、店員から入荷情報を得ることでようやく手にすることができる仕組みが出来上がっており、ブランド側がメディア露出を巧みにコントロールすることで飢餓感を煽ったせいだった。また、裏原ブランド同士が手を組むWネームと呼ばれるコラボレーションが常態化し、人気ブランド同士のアイテムは争奪戦の様相を呈した。この地域限定のムーブメントが後に、世界のストリートファッションの原点となるとは誰も想像できなかった。
 
裏原ムーブメントは、藤原ヒロシを中心とした仲間内から派生したアンダーグラウンドなものだったが、そこから少し距離を置いて、よりデザイン性が高いファッションブランドとして成長する動きが見られた。その代表が、高橋盾の「アンダーカバー」と宮下貴裕の「ナンバーナイン」だ。両ブランドともに2000年を契機に新しいステージへと駆け上がった。また、1998年に元A.P.C.の清永浩文が立ち上げた「ソフ」も、いち早く他ブランドとの違いを打ち出し、クリーンで都会的なカジュアルを提案していた。1999年にソフの別ブランドとして発足させた「F.C.レアルブリストル」では、ナイキとのWネームを発表し、スポーツとファッションの融合に先鞭を付けた。
 
当時私が編集していたバイキングという雑誌は、通販カタログが誌面の1/4ほどを占めていたので、純粋なファッション誌とは言えなかった。そのためレギュレーションの厳しい高級ブランドはもちろん、人気絶頂だった裏原ブランドには門前払いされたが、セレクトショップや独立系ブランドがリースや取材に協力してくれたので、どうにかファッション誌の体裁を整えることができた。当時の裏原ブームとは違う方向性で支持を集めていたアウトドア系セレクトショップやヒップホップ系ショップの協力も大きかった。そうしたこともあり、裏原ムーブメントは私にとって近いようで遠い存在だったし、一歩引いたところからその動向を見つめていた。30代以上の読者を抱えるレオンが提唱するイタリアンモード、20代の読者が中心のスマートが提示する裏原系ストリートという異なる勢力が並走していたが、私はそのどちらにも属することはなかった。また、リアルな渋カジ通過世代はそれほど裏原系ブランドには熱を上げていなかったように思うし、実際は渋カジ世代よりも年下で、地方から上京してきた若者たちが裏原の信奉者だった。

業界人の集うカフェが表参道に

渋谷や原宿のショップ取材やリースを繰り返し、ファッションに関する基本的な知識を蓄えて一丁前に語れるようになると、原宿の明治通り沿いにあった「オーバカナル」(1995年)というオープンカフェで打ち合わせをすることが最高のお洒落に思えた。バンド友達から格安で譲り受けたベスパに跨り、当時社屋のあった中野から渋谷や原宿へ出かけた。ちなみにそのカフェでは写真家のHIROMIXを目撃したことがあり、編集者やクリエイターがラフを広げながらジタンをふかしていた。今や喫煙者は肩身が狭い思いばかりしているが、当時はコーヒーとタバコは切っても切れないもので、どこのカフェでも紫煙が漂っていた。
 
駒沢公園の「バワリーキッチン」(1997年)や、中目黒の「オーガニックカフェ」(1998年)など、90年代後半からカフェブームが始まっていたが、00年代初頭に表参道にもこの波が及んだ。現在表参道のアップルストアの裏通りを入った場所で2000年にオープンしていた「ロータス」に次いで、2002年には表参道カフェド・ロペ跡地に「モントーク」をオープン。空間プロデューサーでカフェブームの立役者として知られる山本宇一が手がけた両店には、昼間から深夜までファッション業界人やクリエイターがひっきりなしに訪れた(ちなみに、前述したバワリーキッチンも山本宇一の手がけるカフェだ)。特にモントークは、ファッション関係者向けのレセプションや新作発表会などで頻繁に利用されていた。
 
ファッション関係者の溜まり場としてはもちろん、しっかり食事もできるのがカフェブームの特徴で、“夜お茶”と称して仕事帰りの女性たちも立ち寄った。ちなみに表参道の「スパイラルカフェ」も業界人御用達だが、やや年齢層が上でコンサバな人種が多かった。私も当時はロータスやモントークを利用していたが、特にお気に入りだったのがキャットストリートを渋谷方面に少し入った半地下にあった「AIPカフェ」だった。ヘーゼルナッツやキャラメルのフレーバーコーヒーが美味しく、ゆったりとしたソファー席でタバコが吸えたのでつい長居していた。また、現在のようにショップがひしめき、若者で埋め尽くされる街ではなかった中目黒にあったオーガニックカフェもよく利用していた。当時連載を依頼していた目黒川沿いのアウトドア系セレクトショップ「バンブーシュート」の店長である甲斐一彦と打ち合わせをするためだったのだが、ミッドセンチュリー家具を揃えた店内で過ごす時間は心地良かった。ちなみに上記したカフェで2022年現在も営業を続けているのはバワリーキッチンとロータスのみで、2022年4月の時点でその他のカフェは全て閉店している。

ファッションも音楽もパリが熱い

東京ではプレミアムジーンズ人気が継続し、裏原ブランドが盛り上がる中で、パリに現れた新星がエディ・スリマンだった。それまで「イヴ・サンローラン リブ ゴーシュ オム」のデザイナーとして、一部の業界人や物好きにしかその名が知られていなかったが、1997年から2000年の3年間で老朽化しかけていたイヴ・サンローランのブランドイメージを刷新することに成功。同ブランドから派生した「サンローラン・ジーンズ」も彼によるものだった。こうした手腕が高く評価され、2001年「ディオール・オム」のディレクターに就任。メンズノンノやポパイで活躍していたスタイリスト祐真朋樹はいち早くこの動向に着目しており、他誌も彼に倣ってエディの動向を少しずつ取り上げるようになっていった。
 
パリで結成されたエレクトロニック・デュオ、ダフト・パンクが世界的なヒット作『ディスカバリー』を放ったのもこの年だった。名曲「ワン・モア・タイム」をリーディングトラックとする本作は、ハウス、テクノ、ヒップホップといった要素を巧みにブレンドしながら、誰の耳にも訴えかけるキャッチーなメロディが武器となり、まさにジャンルの垣根を超えて大ヒットを記録。90年代初頭から半ばにかけて盛り上がったブリットポップムーブメント後にクラブシーンを熱狂させた、ファットボーイ・スリム、アンダーワールド、ケミカル・ブラザーズといったイギリス勢の次に来るダンスミュージックとして、ダフト・パンク、エール、カシアス、モジョといったフランスのアーティストが音楽雑誌を賑わせるようになった。こうして新しいカルチャーの発信地として、パリのアンダーグラウンドシーンが注目されていたこともディオール・オム快進撃の土壌となっていた。

続く

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