もう1人の自分と出会う方法
古いテンプレかもしれないが「欧米の人は陽気」みたいな先入観が、ある人にはあるのかもしれない。少しばかり海外経験のある僕もそう思う。日本人と比べると海外は陽気な人が多い(イギリスとかイタリアは気候のせいもあるのか、暗くて落ち着いた人が多いイメージだ)。もちろん人種によるバックグラウンドの違いもあると思うが、言語の結びつきは強いと思う。
英語を話している時は強気になれている気がする。それは気のせいなんかじゃなく、文の構造上自然とそうなるのだと思う。
日本語は曖昧な言語だ。断言せずともなんとか濁せる。まあとか、うーんとか、かもとか、思うけどなあ、とかみんな大好きだ。
英語にもapparentlyとかsupposeとか濁すような言葉はあるけど、文法上「結論・意見を始めに言わないといけない」ので、必然的に意思決定は早くなる。Yes or No の世界に、うーんとか言ってられる余白はないのだ。
英語に詳しくない方のために、以下例文である。
まず最初に「ブリブリするべきだ」ということを主張するのが英語だ。自分のポジションを明らかにしてから、全ては始まる。私はブリブリ側ですよーと明らかにしておく。理由を述べるのはその後だ。ブリブリの理由は健康を維持するため、無理矢理にでも毎日出そう、そういった付随情報を後からつけていくイメージだ。
構造自体は極めてシンプルだと思う。「私はブリブリする」という一本柱があるので、文を組み立てやすい。日本語は積み重ねて積み重ねて完成させるピラミッド型に対して、英語は太くて長い(馬糞のような)幹に小枝を付けていくウッド型の言語と言える。自分で書きながら驚いているのだが、結構良い感じに言語化できたのではないか。
もしこれが日本語だと、
「んー、毎日が理想だけどウーウーしてもブリブリできない日もあるからなあ。無理にする必要もないけど、まあどっちかといえば毎日ブリブリするべきっていうポジションかな」
みたいな回答になってしまう。英語はシンプルで良い。これからもずっと勉強していくことになると思う。
言語による人格形成で思い出したけど、マルタで語学留学をしていたとき、同じクラスだったロシア人が「現在形とか進行形とかの概念が分からない」と言っていた。これは彼らの宗教的ともいえる概念、考え方の影響に付随する。「だって世の中の全ての事象は過去の物でしょう?」
アメリカでは I think〜becauseで意見を述べる教育が小学校の頃からなされている。そら意見をきっぱり言う人間になるわ。トランプ大統領みたいな人出てくるわ。
でも僕は日本人特有の曖昧さ、どっちつかずのポジションも好きだ。というか元来そういうなよなよした性格なのだと思う。
英語が使えるようになったことで、もう1人の自分と出会えてよかった。