年賀状
今年はnoteを書くぞ~!と意気込んでキーボードを叩き始めたが、やっぱりスタートは新年のことを書きたい。
そう考えているうちに、年が明けて2週間ほどが経った。時間が経つのは早い。早すぎる。
この前、あけましておめでとう~!とはしゃぎながら酒を飲んでいたのに。
…でもよく考えたら、昨日も一昨日も新年会と称して酒を飲んでいた。もう新年あけて時間が経って、高校3年生に関しては新年ムードはおろか、人生を左右すると言っても過言ではない共通テストを受けているというのに。
そもそも、「あけましておめでとう」はいつまで言うものなのか、よくわからない。
松の内の期間が終わったらというのが一般的らしいが、それも地域によって1/7だったり1/15だったりとよくわからない。
特に今年は仕事始めが1/9の人も多かったはずだけど、仕事始めで先輩に会ったときに
「1/7過ぎてるので、今年もよろしくお願いしますとだけ!」
とか言うのも気持ち悪すぎる。
いつまで言うべきかは、周りを見ながら雰囲気で乗り切るしかないね。
お正月といえば親戚で集まったり、初詣に行ったり、おせち料理やお雑煮を食べたり、それなりにやることが決まっている。
でも、今年は今までとは違うことがあった。年賀状について。
ーーー
今年は自分宛に一枚も年賀状が届かなかった。
べつに喪中だったというわけではない。
ただ、年が明けてめでたいはずなのに、年賀状は届かなかった。
とはいえ、僕は去年、一枚も年賀状を出していない。
自分が出していないのだから、一枚も届かないことに対して文句を言う筋合いはない。
働かざる者食うべからず。ちょっと違うか。
今は実家に住んでいるから、母親や父親宛には何枚か年賀状が届いていた。
でも、それぞれ数枚程度。
父親も母親も、1/1 0:00に年が明けて一通り盛り上がった後は、知人にLINEなどを通してメッセージを送っていた。
親世代でも、いまは年賀状よりSNSが主流。
そういや最近母親が会社の人に影響されてInstagramを始めたらしい。ストーリーが~とか言ってて笑えてくる。
自分もフォローされたが、自分のストーリーズを見られるのは少し恥ずかしい。
年賀状の話に戻る。
SNSが主流のいま、小学生の頃のように、1/1の朝にワクワクしながら自宅の郵便受けを開けて、たくさん届いている年賀状を楽しく読むあの時間は、もう訪れないのだ。
そう考えると、少し寂しい気持ちになる。
いままで貰った年賀状は、手紙などと一緒に机の引き出しに全てしまっている。大掃除のたびに見返すのだが、これがまた懐かしくて良い。
そのせいで大掃除は全然進まない。そういうもの。
特に今まで保存してきた年賀状を見ても大したことは書いていない。
いかにも小学生らしい字で
「今年も仲良くしてな~」「また遊ぼうな~」
と書いているくらいで、みんなにそれ描いてるやろってツッコみたくなる。
小学生のころから社交辞令を覚えてしまうのも、残念。
少し話がずれてしまうが、これを書きながらよくよく考えると、1/1に年賀状が届くようにするためには、一般的には前年のうちに「あけましておめでとうございます」と書いて郵便ポストに投函する必要がある。
文字通り、「予祝」である。昔の人は違和感がなかったのだろうか。それとも、違和感を持ちつつ、でも1/1に届く方が嬉しいよねと妥協したのだろうか。
まあたしかにそれを言い始めると、遠方に済む友人の誕生日プレゼントが当日届くようなもので、仕方がないことである。気にしたら負け。
ただ、「予祝」と聞くと、ちょっと笑えてくる。矢野前監督のせい。
ちょっと何言ってるかわからないです、と思った方は以下のリンクを見てほしい。いやべつに見なくても良い。ちなみに矢野監督はSBTをゴリゴリにやってるらしい。知らんけど。
まあとにかく、年賀状の文化は廃れてきているということである。
少なくともこれから生きていくなかで年賀状を書く機会はもうないような気がする。
今年に関しても、親と同様にLINE、X(旧Twitter)、Instagramなどで「あけましておめでとうございます」に準ずる文章を送って終了。
本当に仲が良い人には直接メッセージを送るし、他の友人は自分が投稿したポスト(旧ツイート)やストーリーズを閲覧してくれているため、「あけましておめでとうございます」のメッセージは伝わっている。
なんなら、「年賀状ください」といったストーリーズを投稿したので、完全に受け身ではありつつも、ここで個別のやり取りを行うことができた。
そう考えると、いまさら仲良くて、かつ年賀状を介さないと連絡を取ることがないような友人は存在しない。
おそらく年賀状を介さないと連絡を取らないような友人は、もはや友人ではない。
それほどまでに、今はほぼすべての友人とSNSで繋がる時代である。
SNSが発達する前、年賀状はご無沙汰にしている方にも自然に近況を伝え、付き合いを続けていく役割を果たしてきたようにも思える。
そう考えると、SNSで友人と繋がり続けている今の時代とは親和性が無いのかな。
その文化が好きな人もたくさんいるから、それ自体を否定するわけではないものの、個人的にはこうした電子化、効率化は嬉しい。
タイパが良い。お金もかからないのでコスパも良い。タイパが良いという言葉をいま生まれて初めて使った気がする。
使い方合ってますか?
こうした節目のタイミングは、いままで疎遠だった人と再度連絡を取りやすい。個人単位で見ると誕生日などもそうである。
ちなみにこれを男女の関係で見ると、巷では「ザオラルLINE」とか言われているらしい。ネーミングセンス◎。
特に拡散型SNSや画像投稿型SNSのおかげで、こちらから何かアクションを起こさなくても、ある程度友人が何をしているのか知ることが出来る。
チャット型SNSだけでは成し遂げられない技である。X(旧Twitter)、Instagramバンザイ。
だから、節目のタイミングで疎遠だった人に連絡するのも、なんとなくその人の近況を知っていて、向こうも知ってくれているのでハードルがものすごく高いわけではない。
なんならそこから飲みの約束が生成されたりもする。ありがたいね。
いまはこうして小・中学校の友達、高校の友達、大学の友達、趣味で出来た友達など、いろいろなライフステージで出会ったいろいろな友人と関わり続けることができているけど、この先どうなっていくのだろう。
そこで、人生の大先輩でもある、自身の親について考えてみた。
父親はよく高校時代の友人や先生と飲みに行っている。でも小中学校の友人と飲む話はあまり聞かない。友達が多そうな性格に見えるのに。
母親も誰とでも話すような人だが、飲みに行くとなると会社の同僚が多いようで、年末もべつに古くからの友人と飲みに行く話は聞かない。
かつ、両親はともに神戸出身なので、べつに故郷が遠いというわけでもない。
これらのことから(数学の証明みたいになってきた)、2つの仮説が立った。
仮説Ⅰ:親世代はSNSが発達していなかったため、昔の友人と自然に連絡を取る機会もなく、それゆえに学生時代の友人との接点が少ない
仮説Ⅱ:そもそもそれくらいの歳になると、それぞれの人生があるので学生時代の友人との接点が少ない
仮説Ⅰが正しいとするならば、自分はこれからもいろいろなライフステージで出会ったいろいろな友人と関わり続けることができる可能性がある。そうなれば嬉しいけどね。
でも仮説Ⅱが正しいとするならば、社会人になったらみんなとの関わりはどんどん減っていき、やがてなくなってしまう。悲しいね。
もちろんどっちが正しいとかそういう話ではなくて、どっちの要素もあるとは思うものの、SNSで繋がり続けているこの縁を大事に、これからも友人と仲良くしていきたいなと思ったわけでございます。
特にもうすぐ引っ越しで関西離れるから、そのあたりは心配。
遠く離れていてもSNSがこうした縁を繋ぎ続けてくれる、そう信じて、今日も元気にTwitter(現X)。
今日はここまで。
1か月に1本くらいで文章書きたいなと思ってますが、特に4月からはどうなるか知りません。またね~。
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