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さよなら、バンドアパート.美咲の話1

「いいとこね!」

つないだ手の先から、風鈴のような声が聴こえた。何故かは分からなかった。分からないけど、
手をつないだまま、つないでもらったまま、耐えきれず泣いていた。


登山道は木々が茂っていて、油蝉が命がけで叫んでいた。しばらく曲がりくねった道が続き、その後には直線的な急勾配が立ちはだかる過酷な坂路だった。

猛暑の登坂に息切れは激しくなり、Tシャツは赤ん坊のよだれかけのごとく首元がびっしょり濡れた。しかし清々しさが上回り、不思議と笑顔になってしまう気持ちのいい時間だった。

山頂に座する神社は、いきなり扉を開けたような現れ方で、爽快な戦標を禁じることができなかった。

無人なのでがらんとした寂しさはあるが不気味さはない。建造物というよりは「作品」のような精錬されたものだった。肋骨の中で心臓が小躍りしていた。この立地と道の険しさでは、誰にも知られていないのではないかと思った。

風の音が近く、登山道から聞こえる弾の声は遠くなっていた。合奏の配置は芸術的で、息を吸い込むと音を体に取り込めそうだった。

神社の隣には『展望やぐら』があり、ニュータウンまで一望できた。自然と人工が調和した風景は、一瞬にして心が浮き立つ眺めだった。

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僕のすべてだった町も空から眺めると箱庭を思わせるほど小さかった。そこに住む人の心どころか、これからの未来までもが見通せそうだった。

「運動部のやつらは泥と汗にまみれて、今ごろ練習してるのか」
「このままどうなるのか」
「これじゃいけないのか」
「でも俺はいったい、何がしたいんだろう」
「やりたいこともないし」
「そういえば女なんて好きになりたくないのに、女子ばかり目に入る。気色悪い」

思春期特有の葛藤すべてが胸に氾濫して苦しくなった。思わず目を閉じて、息を吸って、吐いた。
この完壁な景色の中に立ちながら、目を閉じるという賛沢と快楽を味わい尽くしていると、苦悩のすべてが些細なものに感じてきた。

携帯電話なんて持っておらず、時刻は分からなかった。空の色がだいだい色に染まり、風が冷たくなった頃、家路についた。
それからというもの、神社を訪れるのは日課になった。次第に登坂にも慣れ、不登校のわりに足腰が丈夫になっていった。

「ヤバイ場所見つけてもうてんけど連れてったろか?」
「マイルドセブンを吹かしながら偉そうに言った」
「何やねんそれ」
栗田が制服のポケットに手を突っ込みながら言った。
「とにかくヤバイ。いっぺんしょうもないとこから離れなあかん。そうせな、おもろいやつにはなれへん」
「別に、学校も部活もしょうもなくないけどな……」
「いや、しょうもない。特にお前の部活は。もうイチローも神戸におらんねんから」
「イチローは関係ないやろ」

中学校になってから友人と呼べる存在はできなかったが、幼馴染である栗田とは付き合いがかろうじて続いていた。

育った環境は似ていても人には資質というものがあるらしく、栗田は僕と対照的な人間だった。

学級委員長であり、野球部の一年生ピッチャー、成績は長田高校合格間違いなし。本人曰く、その後は阪大、神大、京大を狙うらしかなかった。
言うなれば、栗田は中等教育社会の頂点を極めていた。
栗田が中学生活という波を乗りこなせていることに、少なからず劣等感があった。そして将来的には栗田のような人物こそが「世間」というビッグウェーブをクリアしていくと肌で感じていた。

この成功者に何か一つぐらいは勝ちたかった。神社の魅力を伝えたかったのもあるが、「我こそはあの感性を包み込まれて、全身がアンテナになるような気持ちよさの発見者だ」と自慢したかったのだ。
「ようわからんけど、そんなおもろいとこなら明後日連れてってくれ」
「あしたはあかんのか?」
せっかちめいて言った。
「あのな川嶋、水曜しか部活休みないねん。朝練は毎日あるけど」
「一日ぐらいサボっても、そんなヘタクソにならへんやろ」
「そういう話ちゃうねん!」
「まぁ明後日行くんでもええけど、何時からにすんねん」
「放課後に決まってるやろ!」
「俺は朝でもええけど……」
「その生活がありえへんねん。ていうか何で登校拒否してんのに朝ちゃんと起きてんねん!」
「人間は朝起きて、夜寝る」
「そして学校に行く」
「それは行かん。何故なら行きたくないから」
栗田はため息に乗せて、「できる範囲でええからちゃんとしとけよ」と笑った。
水曜、僕と栗田は自転車を飛ばした。

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かっとした初夏の陽射しは、地の底から緑の油を噴きあげていた。栓を抜いたみたいに汗が滝になって溢れてくる。高速で風を引き裂く音に負けないように声を張った会話は怒鳴り合いに近かった。

「まだ着かへんのか!もう三十分はこいでんぞ!」
栗田が大口を開けて叫んだ。
「あの野球部のクソ先公に怒鳴られながら、毎日走り回ってるんちゃうんか!」
「こんなに延々とチャリこぐ練習ないわ!て言うかなんでこんな全カでこぐねん!」
「ダラダラこいでたら夜になるやろ! それにおもくそ飛ばしたほうが疲れへんねん!」
「こっちは、朝練して、ちゃんと、授業受けてるから、こんな体力余ってへんのじゃ!」
栗田の呼吸は死にかけの金魚のように途切れ途切れになった。
「ほんだら学校行かんほうがええやんけ!あんなとこアホしか行かん!」
「行かなあかんねん!」
「なんでやねん!」
「なんでもクソもないやろ!ていうかそんな体力余ってんねんから学校来いや!」
「テレビ見てないんか!宅間守みたいなやつにブッ殺されたないねん!」
「なんで変態が突入してくる前提やねん!」
僕と栗田は枕投げのように大声を出し合いながら、小山のふもとへと到着した。

登坂になってから、栗田の文句には恨めしさが宿ってきた。
「これは、完全にクライミングやんけ、最初に言っとけや。しんど……せみもうるさすぎ」
途中途中、栗田は息を整える陸上選手みたいに中腰になっていた。そのたびに足を止めてやった。
「なぁ栗田、お前ら階段の上り下りのトレーニングしてるやん」
学校に行っていた頃、雨の日、階段を走っていた野球部を見た。
「あ……?してるけど、それがどないしてん?」
「いや、あれと山登りどっちがキツイんかなって思って」
「こんなもんと、比べられへんやろ。あのな、川嶋、お前の中で野球部神格化しすぎ」
栗田は体を重々しく運んで言った。煽りのごとく木々からせみの大声が鳴る。

「なぁ、栗田よ。野球部っていうのは、学校に君臨するクシャトリヤやろ」
「バラモンちゃうんか?」
せみの合唱のせいで声が聞き取りづらかった。
「バラモンは先公やんけ。実際は夢も就活も面倒になっただけの、ガキにイキり倒してるだけの社会のアウトカーストやけど」
「お前、前世で教師に殺されでもしたんちゃうか」
「先に生まれただけのやつに、一方的に振る舞われんのが我慢ならんねん」
自分からユーモアの気配が消えていたことには気づいていた。
「もう、ここらで帰ろっかな……」
「おい栗田、こんなとこで一人置き去りにされたら俺は寂しくて死ぬぞ」
「うさぎか」
そう言ったきり、二人とも無言になり歩き続けた。

後ろから栗田のゼイゼイという声、というより喉の音が聞こえる。せみの絶叫がそれを上回っていた。
僕の息も弾み始めた頃、登頂した。

接近するブルーと乾いた芝生、先刻の山道に生い茂っていた枝葉を振り乱した謹蒼とした木々も生えていないので、せみの喚きも遠い。山頂は坂路に反比例して、穏やかな空間を演出していた。

伝令の馬を思わせるほど息を切らしていた栗田は、左右に足三足よろめくと、ばったりと芝に倒れた。
「立てるか?」
うおっと腹から声をひねり出して栗田は立ち上がった。
「お前、茂野吾郎か。海堂戦の」
「野球部やからな……あと海営堂戦じゃなくて陽花戦な」
「栗田、お前な。他人からやらされてる練習だけで満足してるんちゃうか?他人にやらされてた練習を努力とは言わんやろ。好きなことして飯食おうなんてずうずうしい特権、与えられた宿題こなした程度で手に入るわけないやろ」
丸暗記するほど読んだ『MAJOR』のセリフを棒読みした。
「いや、だから茂野吾郎かって。ていうか俺は別にプロ野球選手目指してへんわ」

栗田の言葉に返事をしないまま、やぐらへと向かった。栗田は後ろをついてきて、やぐらへの白木階段に足をかけた。

ドーム状の空が広がる。毎日眺めているがその日は雲一つなく、一際締麗だった。

いい風景を見ると呆然としてしまう。これは人類共通ではないだろうか。こんな景色を見ているだけで、ますます日常が遠のいていく気がしてならない。心と体が安らぎを覚えて、生まれたばかりの頃の正しい位置に矯正されるようだ。
「ほら、これヤバない?」
「あぁ……」
「小っさいこととかどうでもよくなってくるやん?こんなとこ近所にあってんぞ」

僕があまりに熱心に語るので、栗田は聴いているというより、その様子を見守っている風だった。
「うん、まぁ……ええと思うぞ?思うけど、そんなええか?」と栗田は言った。
「まぁええっていうか、ほら、こういうのって気持ちいいやんか。たまにやで。たまにやるとな」
照れにより逸らした目線は行き場がなくなり、笑ってごまかした「たまに」という言葉が非常口に避難した。

自分が未だかつて味わったことのない屈辱と哀しさが混ざった感情は、耳の裏を熱くして目まいを引き起こした。神社とやぐらは一番大切な場所だった。

学校にいても、グラウンドにいても、家にいても、どこにいても、自分が何者なのか分からなかった。 やぐらに登って、箱庭みたいな町を望んで、自らの心を受け止める。その時だけは自分自身を感じられた。
「なるほどな。まぁ早く帰ろうや」
カップ麺が完成するぐらいの時間が経ち、栗田が言った。
「せやな。あんま長くいてもな、しゃあないしな」
「また山道とチャリか、ダルイな」
「せやな。ダルイな」

怒れもせず、言い返せもしなかった。やり方が分からなかったし、やることでもないということだけは分かった。しかし宝物と僕のアイデンティティは泥まみれになった。

それから神社の話は誰にもしないと決めた。あの場所に感動している自分を恥ずかしいとさえ思った。 話したかったはずの場所は、誰にも話せない場所になった。

好きなものは検索しないほうがいい。
涙でページが濡れた本も、鳥肌が泡立ち震えた歌も、Amazonのレビューでは必ずボロクソに叩かれている。他人の嫌悪や悪意、無関心に「感動」は平気で蝕まれる。大切なものは自分の中だけで留めておくほうがいい。

しかし素晴らしいものを見たり、美味しいものを食べたりした時、「教えたいな。喜ぶだろうな」と思い浮かぶ人がいる。
それは一生に一人、二人しかいないのだろうけど、磁力として引き寄せられて巡り合う。僕たちはいつだって、そこにしがみつくしかないし、その手にぶら下がるしかない。




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