シン・ウルトラマン:現実と《虚構》の中間から見えるもの
話題の『シン・ウルトラマン』を公開初日に観てきた。
正直な感想としては約120分退屈せず楽しめたが、モヤモヤする部分もあり、いまいち満足しきれない部分もあった。
私は始めのウルトラマンはティガの世代なので、初代にそこまで思い入れがないのも乗り切れない要因のひとつなのかもしれない。
今回の記事では『シン・ウルトラマン』の内容よりも『シン・ジャパン・ヒーローズ・ユニバース』の内の一作品として通してみたこの作品の立ち位置を考えてみたいと思う。
それは主に《虚構》と自分(実体)との関係についてである。
エヴァ:《虚構》の中から現実へ
『シン・エヴァンゲリオン』で描かれていたものは何だったか。それは主に主人公シンジの心の内面の問題であり、父との関係の問題であった。
母の宿ったエヴァ初号機に乗り込んで父と戦う。胎内回帰しながら成長の過程を見出すこのモチーフはエヴァのある世界という《虚構》の世界から
最終的に全ての問題が解決した後、そのエヴァという存在を消し去り、
現実の宇部新川駅へと到達する。
つまりエヴァのある《虚構》の世界から自分の実存の悩みについて考えていたシンジが、最終的に父との関係の解決・他者性を獲得することで成長し、
《虚構》の世界を飛び出して現実に着地しているのである。
エヴァでは《虚構》の世界から現実の世界への移行が行われているのである。
ゴジラ:現実 VS 《虚構》
『シン・ゴジラ』で行われていることは、そのキャッチコピーにもあるように現実と《虚構》を戦わせることである。そしてゴジラという《虚構》への対処を通じて、現実(日本)もまだやれるのではないかという現実への希望を示す物語でもあった。
ここで少し精神分析的に物語を考えてみたい。エヴァが母の胎内に回帰し、父と戦う、すなわち母性と結託して父性と戦う物語だったというように
見れば、ゴジラは自分ひとりで父性(怒れる父)に立ち向かう物語というように考えられないだろうか。
そうすると『シン・ゴジラ』のストーリーは知識や知恵を用いて怒れる父を鎮め、父性を乗り越える話とも見られるのではないだろうか。
ウルトラマン:現実と《虚構》の中間から見えるもの
では今回の『シン・ウルトラマン』で描かれたものは何だったのか。
《虚構》から現実に着地し、《虚構》と現実を対立させた後で描かれた物語とは何だったのか。それは、《虚構》と現実の融合実験、現実と《虚構》の中間からの視点の獲得だったのではないかと思う。ウルトラマンは外星人として地球に飛来し、主人公新二と融合している。本作で語られた一部の側面として、神≒ウルトラマンに頼ることなくとも進化し続けていけるという
人間の可能性への期待があったのではないかと思う。それは、ウルトラマンという《虚構》の存在と現実の存在として人間が融合したという中間の存在の視点から得られたメッセージであった。
そしてこのウルトラマンとの融合とは何を意味するのか。私はここに自分との共闘の意味があったのではないかと考えたい。ウルトラマンとは鏡に映った自分の鏡像だったのではないか。本作の設定であるようにウルトラマンはいずれ科学が発達した人間が行きつく可能性の一つであった。ということはウルトラマン≒人間ともいえる訳であり、ウルトラマンとして戦うということは鏡に映った少しカッコ良く見える自分をイメージして戦うということではないだろうか。その結果得られたのは人間へ期待、つまり自分自身への
自信の獲得なのではないだろうか。
仮面ライダー:不可分の現実と《虚構》
そして『シン・仮面ライダー』で描かれるものは何になるのだろうか。ここからは完全な予想であるが、ここまでの流れを踏まえれば見えてくるものがあるのではないだろうか。
まず視点の部分で考えると《虚構》の中(エヴァ)→現実VS《虚構》(ゴジラ)→現実と《虚構》の中間(ウルトラマン)といった流れの中で仮面ライダーとはどういった立ち位置になるのだろうか。
それはおそらく、現実と《虚構》の融合といった形、しかも不可分の融合といった形で示されるのではないかと思う。ウルトラマンがその実験であったように仮面ライダーでいう改造人間とは現実と《虚構》が不可分に混じってしまった存在として描かれるのではないだろうか。
それはもはや中間の視点ではなく、正義でも悪でもあるようなどちらでもない存在としての悩みが描かれるのではないかと予想している。
そして、構造的なことを言えば、仮面ライダーの戦いは母性も父性も鏡像としても友(自分)もいない孤独な自分自身の戦いとして描かれるのではないだろうか。そして怪人とは同じ改造人間、何かしらの欲望の象徴として現れ、それとの戦いは自分自身の欲望との戦いとして描かれるではないだろうか。その結果得られるのは、おそらく自立ということではないかと予想している。
まとめ
今までの話を少し表にまとめてみた。(図1)こうしてみるとこのシン・ジャパン・ヒーローズ・ユニバースの作品群は、製作者(庵野秀明)の心の成長と《虚構》に対する視点の変化としてみることができるのではないだろうか。こういった視点で作品を楽しむのも面白いのではないかと思う。
庵野監督のこうした現実・日本・人間への希望といったメッセージは、それに対する期待や愛情に近いものともとれるだろうし、私は反対にフィクション≒《虚構》の力に対する信頼がないと映画という虚構を通してこれほどのものを描けないのではないかと思った。
以前の記事で虚構の力の弱体化について言及したことがあったが、このような虚構の力を引き出して現実への強いメッセージを打ち出せる稀有な作家が
もっと出てきて欲しいと切に願うばかりである。
今回のヘッダ画像にはすぴーさん(spinel3)のモノを使わせていただきました。ありがとうございます。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?