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空っぽな自分を見つめる

<1階>自分について考えよう

皆さんは、「自分」という概念をどうとらえているだろうか?あるいはどういうときに使ったり考えたりしているだろうか。

「自分を大切に」とか、「自分軸で生きる」とか、「自分探しの旅に出る」とか。自分というものには様々な言葉がくっつく。

私はこのように「自分とは何なのか」という多くの人が考える話題を20歳を超えてよく頭の中で思い浮かべるようになった。僕がこんなことを考えるのは自分の名前が大きく影響している。

僕の下の名前は「拓己」と書く。己を切り拓く、己が切り拓く、己で切り拓く、こういう風に解釈できるような筋の通った名前だと思っている。僕の中でも非常に大切に思っている名前だ。

物心がつきすぎた20歳を迎えて、初めて自分の名前と自分というものをいったんちゃんと考えてみようという風に思い立った。

それと同時に、大学に入りさらにあやふやになっている自分の立っている位置というのを再定義しようというふうにも思った。

これはそう思い立ってから今に至るまで、僕がただただ頭の中で考えてきたものをまとめた文である。

別に論文でも、哲学について語ったものでも、エッセイでもない。駄文だ。笑いどころも特にない。では行ってみたいと思う。

<2階>自分概念の住所

「自分探しの旅」これはよく聞く言葉であると思う。旅に出て、様々なものに触れて、それを通して自分を見つめなおす。見慣れた日常を捨てて外からの影響を求める手法だと理解している。新たな体験は、内なる自分を呼び覚ますのかもしれない。

だが、ここで僕としては疑問が生じた。自分というものを探すには遠くへ出なければならないのか。自分という概念は自分の体の中に存在しているのではないのだろうか。そこまでして探さないといけない自分は本当に自分の体の中に存在しているのだろうか。

ここで根本的に考えなければならないスタンスが2種類ある。そもそも自分は体の中に「存在する」のか「存在しない」のかである。これはどういうことか。実際に見聞きして自分で考えているから自分は存在するに決まっているという立場の人もいると思う。だからこそいろいろな人間がいるのだと。しかしながら、別の考え方もある。

そもそも、人というのは身近な人を含め、世間からいろいろな影響を受けることを前提で生活している。その情報を大小あるが切り取って受け入れてわがものにしている。自分の考えとして落とし込んでいる。その集合体を自分と言ってしまえば終わりなのかもしれないが、それはすべて他人の集合体という考え方もできるのだ。

よく「自分との会話」というワードを聞くことがある。マインドフルネス的なものに近いかもしれない。だが、僕はそれは詳細には会話できていない、もっと言えば不可能だと思う。では、どうするか。自分のイメージというものを他者に求めるしかない。よく、「私ってどういう印象?」とかいう質問があるけれど、そういうことなのだ。案外そこで返って来た答えっていうのは腑に落ちやすい。

これを問題化するならば、自分は客観的な視点からしか探せないということになる。環境を変えることも周りから影響を受けていることに等しい。

これはおかしい。なぜ自分の体の中にあるはずの自分という概念が外からしか見つけられないのだろう。これは存在自体が揺らぐことになる。

自分というものはちゃんと存在し、体の中にあるのか。そもそも自分のものなのか。僕はこういうことを考えていてこの概念自体が定まりづらいものだと考えるようになった。

<3階>自分概念の形

多くの人が、自分の中に1本の軸を持っていたいと考える。指針というか価値観というかそういうものを据え置いた人生を歩みたいと願っている。「確固たる自分」を必要としているのである。

それはなぜか。自分が多くの人が存在する社会の中で空っぽの自分のままで埋没していくのが怖いのかもしれない。あるいは自分概念をこの世の中に残したいからかもしれない。

確固たる自分概念を持っている人は事実多くの人からかっこいいという風な感じ方をされる。それは至極当たり前な話である。

しかしながら、僕は「自分」という存在がゆるふわに思える。前述の考え方を用いるならば様々な他人を束ねている集合体なのだからそれがきれいな形をしているはずがないとも考えられる。しかもそれが状況によって変わるのならば硬度のそんなにないのだ。

多くの人がこのゆるふわを抱えながら生きている。無常という言葉があるように、自分概念の形は多くの人にとって定まったものではない。

<4階>自分概念の弊害

根っからのインドア派である僕はぼーっとしているときによくSNSを見る。他人の投稿を見て、充実しているなと思いながらふと我に返ることが多くある。

2階では自分が客観的にしか探せないというようなことを語ったと思うが、これの応用の問題として、「他者との比較」というものがある。

「他人のことなんか気にするな」というような言葉やそういうようなタイトルの本が多くある気がするが、これは考えどころである。自分概念を確立するのに他者が必要だとすれば、自分概念が他者からできているのであれば、ここに関して深刻な問題が出てくる。

多くの人が自分を主体で世界を見ている。至極当たり前のことだ。こうなったときに他者に対しての嫉妬や卑下がでてくることは自分概念をもつネガティブな影響ともいえるだろう。

これは人間関係どうのこうのではなく、自分概念を持っているが故の問題といえるだろう。

では自分概念を持たなければいいという風に考えるかもしれないが、それは人間として無理なことだ。言ってしまえば自分って何だろうと考えるたびに他者の存在は考慮しなければいけなくなる。自分概念と他者は切っても切り離せない存在だ。

嫉妬や卑下はそういった性質が引き起こした悲劇だとも考えられる。全員が全員出来た人間ではない。その例が僕だ…。

と、このように自分を卑下することもある。

<5階>自分とは思ったより自分のものではない

僕は悲観的なのかもしれない。というか、このことを考えて自分の名前が重荷になった気がする。現代は個が起点となって様々なイノベーションを起こす時代だ。だからこそ概念としての自分をとらえなおした節もあるのだが、
さらにわからなくなってしまった。

自分概念は決して独立したものではない。これは今回明確になった気がする。

とはいえこれは途中経過でしかない。自分のスタンスをとった意見をこれから見つけられることを自分で期待している。


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