Outer Wilds プレイ後記+考察
プレイ中に熱くなりすぎて、そういえば考察の部分を書いてなかったことを思い出した。あれに付け加えるのも何だし、別記事として置いておく。
▼日記の方
The Uncertainty Principle / 宇宙の眼とは
このOuter Wildsというゲームが伝えたかったものは何だったのか?
それを語るにはまず『宇宙の眼』とは結局何だったのだろうか、ということを考えなくてはならない。
【宇宙の眼について本編で分かる事実】
・主人公から発見可能などの時間軸より古くから存在している。
・常に何らかの信号を発している。
・衛星である量子の月がある。
・生きて入った者は宇宙のどこからも観測不可能な場所(時間)に飛ばされる。
・小型探査機を雲の中に送ると次の宇宙に残る。
・視たものは宇宙全ての銀河の臨終を視ることになる。
・生きていることを観測した者に現実の理屈を越えて会うことができる。
・本来会話が不可能なはずの者とも会話が可能である。
・焚き火を囲んでいるとやがて『無数の可能性』と呼ばれるものが生まれ、一粒に収束する。
・その後ビッグバンが発生し、宇宙が生まれる。
謎な部分が多いが、まず『眼』という名前から。宇宙を観測している眼であることは明らかである。だが誰が?何のために?
答えは『宇宙の眼とは誰でも何のためでもない、ただそこに在るという概念』である。あの天体は何らかの理由で量子の中に生まれ、宇宙の始まりと終わりのどこにでも存在する星としてそこに『ある』。生まれるとか創られるではない。ただ『ある』のだ。
量子と可能性の概念がある限り『必ず』宇宙のどこかに存在し続ける、現実を定義する光に落ちた揺らぐ影。それが宇宙の眼である。
そしてその天体は宇宙のどこからか拾ってきた銀河たちの始まりから終わりまでのシグナル/情報を無機質に拾っては反射し続けている。恐らくは流れ者たちが用いるスライドリールのような、主人公が量子の雲に落ちた後に視る全ての銀河の死の様子のような、そういった『視る人に合わせた映像と音』の形で始まりから終わりまでの(あり得た可能性とも言う)記録を乱反射している四次元的な鏡として振る舞っているのだ。(少なくとも三次元世界の知性体から視る限りは。)
それに眼という名前をつけている。この世の誰でもないのに、世界をただ視続けている眼。眼と呼ばれているが、それは現実における神をこのゲームの中で概念化したモノなのではないだろうか?
まあこういうのはそこらへんで置いておいて。
現実の生命体が宇宙の眼の存在を100.0%否定することはできない。99.99%ではない、100.0%である。現実社会に世界5秒前仮説という一見トンデモな理論があるように、視える/聞こえる/味わえる/嗅げる/触れられる情報に絶対にそうだという証明は絶対にすることができない。
そうである以上、そこにあるという情報を覗くと自動的に全ての可能性の終わりまで観測し終えた眼から『自分にとっての全ての反射情報』を受け取ってしまう。これが『宇宙の眼を視ると必ず宇宙の終末を視る』という法則の正体である。子供が「人間は歳を取るとどうなるの?」と純粋な気持ちでコンピューターに聞くと「老いてやがて死ぬ」と機械的に返されるようなものである。
End Times / 始まり、終わり、その間に
今このnoteを読んでいる人間にとっては『宇宙はやがて星を生み出すエネルギーを失い熱的死を迎える』というのはふんわりと受け止められている常識かもしれない。
しかし、OWs作中のメインキャラクターたち、つまりは宇宙飛行士にとっては意味合いが異なるだろう。無限に膨張し星系の間隔がどんどん広がっていく宇宙、冷めて爆ぜていく星々、そしてそれとともに失われていく無数の文明。Chertの様子、そして……彼ら……から分かる通り、それは宇宙の旅を志すものにとっては絶望そのものだ。
では、このゲームは絶望をこちらに突きつけて嗤ってやろうというのが意図なのか。それは全然違う。
Feldsparはあんな場所でもピロピロしているし、ループの中にいることを自覚しているGabbroさえ呑気にピロピロ吹いている。それはなぜなのか。彼らにとって重要なのは最後に『何を見つけたのか』という結果ではなく『旅に出た』という行動そのものだからである。どれだけ宇宙に比べてちっぽけでも、どうせいつか死ぬのだとしても、自分の行動に対して悔いがなかったと言い切れるかどうかなのだ。
死んだ後に何が遺ったかどうかは実は考える必要はない。
なぜそれを言い切れるのかと言うと。何を思って何かを残せば、それは全て波形となって宇宙に遺ることが法則単位で決まっている。なぜなら宇宙の眼が必ずどこかから視ているからである。実は宇宙の眼の信号には過去の宇宙のこういったものも含まれているのかもしれないし、含まれていないのかもしれない。
そして旅に出るという行動から更にもう一歩踏み込んで、『誰かの足跡を追いたい』という好奇心という名の受信アンテナが存在するかどうか。好奇心を標にしたのがNomai文明の人々であり、Hearthianから生まれたプレイヤーである。
Let There Be Light / 言葉が神を生む
過程が存在することに意味がある。
その結実が宇宙の眼の中身で起きた奇跡だ。宇宙の眼の中に1人で入るということは、入った者自身の感覚のみが宇宙に対する眼になるということ同じである。
あの時プレイヤーは宇宙の眼と同化し、知識として知っている『全ての銀河の終わり』を一度観測して暗黒の中に取り残された。だがしかし、その光がどこにもないという状態は逆に言えば宇宙のあらゆる可能性を除外して自由に自分の視たい者、会いたい者を観測しに行ける状態であることに他ならない。あの林は主人公にとって全てを取っ払ったあとに残る心象風景であり、焚き火は会いたい人と出会うための場所。
そこで出会えるのはプレイヤーが今までに『生きて出会ったことがある人たち』であり、更に詳しく言うと『互いを観測し合ったことがある人たち』。
量子の暗黒の中、すべての可能性がないかもしれないしあるかもしれない場所において、『会いに行く方法を知っている』という記憶そのものが『会いに行く方法』を作り出し、『会話をしたことがある』という記憶そのものが実際はどうであれ『言葉が通じる』という可能性を手繰り寄せる。
演奏会をすると宇宙の卵が生まれる。本当に突飛もない現象だが、これは皆はここにいたよという信号波を音楽の形で作り、『次の宇宙に残すもの』の準備ができたから生まれたと見るべきだろう。
これまでの旅・過程をまとめて最期に自分たちは宇宙にどう在ったかという結論を一つのデータにする。(主人公たちに超能力があって映像の形でデータを残せるならそうなったのかも知れないが)あの場に集ったメンバーたちが共通して作れるものは音楽だったので音楽という形でシグナルデータを作ったのだ。
この結論が生きた人間が宇宙の眼に入るとどうなるか?という一連の疑問への答えと、あのエンディングの正体なのだろう。
主人公は楽器が演奏できないし口笛も吹くことができないが、こうして他者の縁を借りて観測することで自分なりの音楽が生まれた。あるいは、自分一人ではない他者の演奏会という行為だから意味が生じたか。そして煙でできた曖昧なシグナルの塊である卵に、観測者自身が触れることで可能性は確定される。
以上の行為をもって今の宇宙の最終結論は観測者によって決定され、新たな宇宙を爆発の光で満たす。
光あれと。
このエンディングは宇宙人の合奏による聖書の神の創造の例えであり、
プレイヤー自身による新世紀。
生きた命に価値はない。宇宙の全てが終わった時、価値をつける生き物が残らないから。でも量子の観測においてその無価値の無は0に限りなく近い数字、∞なのかもしれない。
いや、ちょっとエヴァごっこしたかっただけだって。顔つねらないで。
Echoes of the Eye / 響く、届く、また響く
人と人の恐怖と好奇心を通じた繋がり、これをこれ以上なくはっきりと答え合わせしたのが流れ者たちと囚人なのだろう。
誰かからの痕跡を受け取る、それを理由にして行動する、その行動によって痕跡が残る、また他の誰かがそれを見つける。またそれを理由にして行動をする。そしてそれがまた……。
Outer Wildsはこのループを指して響くと呼んでいる。その場に閉じ込める、閉じ込められるためのサイクルではない、自分ではない誰かのために託すための音叉を伝うようなループ。
流れ者は宇宙に飛び出しておきながら、飛び出した理由となった眼にわざわざ丁寧に蓋をして目を背けた。この不可解な行為は果たして何のためだろうか。純粋な恐怖心がそうさせるというなら、そもそもわざわざ危険に満ちた宇宙に飛び立っていること自体がおかしいのだ。
流れ者はつまり、このOuter Wildsにおける悪を描いた結果として組み上げられた種族なのではないだろうか。視覚情報でコミュニケーションができる種族であるにも関わらず、いやだからこそ、視えているものに眼を合わさない。視えたものを自ら踏みにじり、他者が視ることのできない世界に逃げおおせる。これらは悪行の印なのだ。
しかし、宇宙への罪悪に堕ちた者の中にも心にアンテナを宿した者がいたなら。伝える限り、いつか必ずきっと出会える。この宇宙はそういう風にできている。
そうして時間の底から掬われた彼は『観測』され、この宇宙は補完された。
一つの眼が世界を視始め、二つの眼がそれを伝えて、三つの眼がそれを受け取り、四つの眼が全てを越える。やがて一巡した宇宙に複眼を持った虫の種族と闇を最も遠くまで照らす蒼い光を携えた種族が生まれる。
彼らはきっと誰より遠くまで辿り着くに違いない。