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いざ道場破りのプロ試験へ

・人生初の海外

英語もろくに話せない自分がどのように海外に渡ったのか

日本を離れて、ミャンマーに夜中着陸(予定より少し遅れた)。入国審査。長蛇の列。Wi-Fiが繋がらない。先輩の紹介でアパートの一室でトライアル期間は宿泊予定だった。入国が出来ても気づけば夜中の2時を回っていた。

Wi-Fiが繋がった。深夜を回っていたので、連絡はもちろん繋がらない。初の海外。アメリカやヨーロッパならまだしも、ここはミャンマー。空港のベンチで全てのカバンを抱え横になった。すぐには寝れなかったが目を閉じた。

目が覚めたら身体中が痒い。そう。ここは東南アジア。大量の蚊に襲われていた。朝やっと連絡が取れてタクシーの運転手に電話をつなぎ目的地まで向かった。街並みには衝撃を受けた。

アパートに着いてすぐにシャワーを浴びた。シャワーの水をいつも通り口に入れた。吐き気がした。日本との環境の違いに初日から驚いたのは今でも忘れられない。

・道場破りの始まり

その日は休んで、いよいよプロ契約を勝ち取る舞台へ。ミャンマーサッカーの当時は、一つの大きなグランド(4フィールド)に幾つかのチームが練習していると聞いていた。そこから道場破りが始まった。

朝7時にそのグランドに向かうと練習を始めるチームがあった。そこのコーチらしい人に”I’m Japanese. Can I play?”と片言の英語で伝え、“OK”と参加させてもらった。ただ入ってから分かった。

このチームはユースチーム(若いチーム)の練習だった。そのユースチームの監督から午後にこのチームのトップチームが練習あるから来てもいいよと言われた。

そして午後の練習に行くと、数人のアフリカ人もテストで来ていた。1週間くらいチームに合流した。

自分が一番出来る、そんな感覚だった。そしてある日監督から“明日から来なくていい”、と言われた。その時は理解できなかった。

後から知ったが、このチームはアジア人を必要としていなかった。

"ミャンマーリーグはこの年から外国人枠の制度を変えたのだ。各チーム3枚の外国人選手と1枚のアジア人の合計4人外国人選手が登録でき試合に出れたものが、この年から登録は同様にできるが出場出来るのが外国人3枚になったのだ"

ショックはでかかった。自分はやれたのに、と。今思うと浅はかな考えだった。

・まだまだ続く道場破り

次の日はその横のコートで練習していたチームに声をかけ、参加させてもらった。が数日で来なくていいと言われた。

その次の日、また違うチームに。2-3日くらい参加したがここも同じ扱いを受けた。

独自にクラブのグランドを持っている前年度チャンピオンチームにも行った。そこは練習すら入れてくれない。途方に暮れていた。自分はこのまま何も手に入れずに帰国するのかと。(ビザの関係で30日間しか滞在できない、既に2週間は過ぎていた)

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・あるチャンス

そんなある日転機が訪れた。ある一本の電話だった。最初に参加していた練習の時に全くの部外者のオッチャンが、木の下で毎日練習を眺めていて、いつかの練習終わりに連絡先を聞かれていたのだ。

その時は誰だよ、と思いながらも自分の番号を教えていた。この日連絡先を拒んでいたら、、、と思うとゾッとする。

今日あるチームが練習試合だ、来れるか”との電話だった。どこも行く宛がなかった自分はもちろん行くしか選択肢が無かった。

待ち合わせの時間になっても来ないが待った。数十分遅れてきたが、車に乗った。すごい田舎道に入った。俺、このまま拉致られるのかな〜とか少し考えたが、無事にサッカーグランドに着いた。

どこのチームかすら分からないまま試合着を渡され、試合に出た。感触としてはまずまずだった。次の日からそのチームの練習に来るように言われた。

毎日紅白戦で結果を残し続けた。15〜20人は外国人選手が来ていた。1週間くらい経つと気付いたことがあった。毎日外国人選手が入れ替わっていた(必要ない選手は不要とされた)。

そんな中自分は毎日生き残っていた。ビザが切れる最後の方に、ラストのテストマッチと言われるものがあった。その時には外国人選手は5〜6人程だった。

ラストのテストマッチ(トレーニングマッチ)を迎えた。これを逃すと帰国せざる終えない。次回はその後について、書こうと思う。VAMOS!!

たくむ


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西原 拓夢/サッカー選手
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