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この割れ切った世界の片隅の、これまでの僕へ

Twitterを何気なく見ていると、あるnoteの記事が目についた。「この割れ切った世界の片隅で」という記事だ。長く長く綴られたある一人の人生記には、この世界にあるたくさんの「普通」が堰を切ったように溢れ出していた。書いた本人はまだ17歳。自分より若い世代には絶対に勝てないなといつも思わされる。

これを書いた鈴さんは「けんじゅう」で育ったらしい。僕は「しじゅう」で育った。宮城県の市営住宅。「しじゅう」って言ったことないけれど。

だから、これを読んだ僕の目線は、社会を創る人たちから見たら「見えにくい」人たちの一部なのかもしれない。小中から私立の子どもがいる世界も、インターナショナルスクールに通う世界も、日本の中心地、東京で過ごす世界も、これまでの僕の世界から見たら永遠に平行線だ。

これからつらつらと書いていくのは、僕の「ふつう」だ。こんなにも素晴らしい文章を書いてくれたのだから、僕も、僕の味わった普通を共有したいと思う。鈴さんのnoteにも書いてあったように。

「人はその周りの五人の平均値だ」という言葉がある通り、社会的ステータスの近い人々は集まりやすく、自分の見えている物が世界の「ふつう」であると錯覚してしまいます。しかし、自分の見ている世界は社会のほんの一部にしかすぎません。校外で活動するにあたり世の中の「ふつう」の感覚があることを強みにしてきた私ですが、その「ふつう」の感覚はその人の生育環境にあまりにも依ってしまうこと、また、自分自身の「ふつう」の感覚に頼り過ぎている自分の存在にも気が付きました。そこで今回は、私にとっての「ふつう」について書きたいと思います。あなたのふつうも、教えてください。

鈴さんの文章を読んで、なんとなく心がざわざわしたから書くことにしたけれど、うまく伝えたいことを整理し切れていないまま書いていくので、わかりにくくなってしまうかも…ということだけ先にお伝えしておきます。

幼少期

僕の「ふつう」が一番最初に壊されたのは、友達の家に行って、その子の父親と母親が会話しているところを見た時だった。というのも、僕の家は父さんは夜遅くまでいつも帰って来ず、土日家にいてもあまり母さんと話しているところを見たことがなかった。

おそらく休日だったと思うけれど、その友達の家に行って、デュエルマスターズで遊んでいたらその子の母親と父親が話し始めた。僕は初めて見るその珍妙な光景にとてつもない違和感を抱きながら、友達と遊んでいた。

家に帰って、夜遅くまで起きていると父さんが帰ってくる。僕の記憶の中では、父さんは小さい頃、帰ってくると、朝剃って生えかけた髭を嫌がる僕の顔に押し当てて、「ふつう」によく僕と遊んでくれていた。ただ、その隣に母さんの姿はなかったと思う。

その友達とは小学校まで仲が良かったが、中学校になった途端学校に来なくなって、世間的に言えば「ひきこもり」になった。家も突然引っ越したから、今ではどこに住んでいるのかわからない。

小~中学校

小学校・中学校は、僕が生まれ育った市営住宅団地の大半の子がするのと同じように、その地区の学校に通った。今思えば、小学校、中学校は「ふつう」の坩堝だった。車椅子に乗る子もいれば、癇癪を起こして教室をぐちゃぐちゃにして、学校の屋上に飛び出し、フェンスをよじ登ろうとして「死んでやる!」と先生と僕を含めたクラスメイトに訴える子。いつも教室ではなく保健室に来て、誰かがその子のために給食を持っていく。髪の毛を金色に染めて登校してくる子もいた。

彼ら彼女らがそうだったように、僕は僕の「ふつう」を生きた。友達と遊んで、勉強は程々に、月謝1万にも満たない個人経営の塾や、英会話の教室に通った。部活はバスケ部に入って、それが終われば高校受験の模試を月に一回のペースで友達と受けて、一喜一憂して、たまに遊ぶ。僕や、同じように「しじゅう」で生まれ育った僕の友達は、たくさんの「ふつう」に溢れかえった環境の中で、共通した「ふつう」を見つけ出し、同じ瞬間を共有していたと思う。

中学生、受験を控えた頃、父親は気付いたら家から忽然といなくなっていた。僕は、父親とはそういうものなのだと思うようになっていた。多くを語らず、休みの日にはたまに釣りに連れて行ってくれる、平日の夜になれば、大きなペットボトルに入った焼酎を飲む。夜遅い時間、あぐらをかいてテレビをつけて、一人でお酒を飲む父さんの背中は今も目に焼き付いている。

子どもだからがゆえに察する雰囲気の悪さ、というのか、父さんと母さんが揃った食卓は雰囲気が悪くて、僕は土曜日と日曜日の食卓が嫌いだった。僕にとっての日常はそうだったから、みんなもきっとそうだと思っていた。どうもそうではないらしいと気付き始めたのは、大学に入ってからだった。

高校

高校受験、僕は一番得意な国語の時間に気絶した。問題を解いていると、目の前が一気に真っ白になり、保健室に運ばれた。保険で受けていた私立の高校に入った。母さんから「学校に通うために奨学金を借りる」と伝えられた。月1万にも満たない額でこれから返済をするだとか言っていたけれど、話と金額に深刻さが感じられなかったまだ中学生の僕は、ああそうなんだ、うちって、お金ないんだな、と、それだけ思った。

最初に入ったコースはいじめ問題があって、それに嫌気が差した僕は転コース試験を受けて、特別進学コースに入った。その高校は、コースが変わると制服が変わった。一式揃えると6万円くらいする。これ以上親に迷惑をかけたくなかった僕は、早朝バイトをして、学校に通う生活を続けた。自分のバイト代は制服代にほとんど消えて行った。僕にとってはこれが「ふつう」だった。

しんどい思いをして入った特別進学コースは、特別学力的に飛び抜けているわけでもなかったけれど、前いたコースよりも人の雰囲気が全体的に柔らかかった。一方で、周りの人が身につけているものは向こうにいた時よりグレードが高かった。小中一貫校に通っていた友達もいた。県内なら名前を知らない人はいないであろう会社の社長の息子だったり、親が医者だという人、仙台市の中心部に住んでいる人がいた。僕は、新しい「ふつう」にここで出会った。

新しい「ふつう」は時に牙を剥いた。大学受験、私立の高校で推薦枠に溢れまくっていた僕の学校は、大半がセンター試験の対策なぞせずに私立の大学に合格して行った。そんな周りの友人を見て、何を勘違いしたのか自分にも行けると思った僕は、東京の私大を第一志望に据えて受験勉強をしていた。もちろんお金がないことは承知の上だった。学費を見ても、公立と桁違いだったから、その大学の給付奨学金に応募した。これなら学費が半額になる。

結果的にその奨学金は通って、僕は四年間、通常の学費の半額で通えることになった。一つ予想外のことがあったとすれば、僕がまだ家庭の経済状況を理解できず、周りを見て勘違いしていたことだ。この頃、家から姿を消していた父さんは仕事が原因でうつ病とギャンブル依存症を併発して、うちの財産は一度ゼロになったらしい。朝早くから働いていた母さんは僕は夜勉強を終えて帰ってくると寝ていて、ゆっくり僕の進路状況について話をする機会もなかった。11月頃、大学の話をすると、僕が行きたかった大学にはいけないことが決定した。母さんは、僕がずっと地元の大学に行くと思っていた。「自分の子どもには、行きたい大学に行かせてあげてね」という母の一言は、僕を諦めさせるのに十分だった。

急ピッチでセンター試験の対策を始め、僕は地方の公立の大学を探した。3教科で入れて、自分も勉強したい科目があるところを探した。その大学は静岡にあって、僕はセンター試験で気絶することもなく、無事合格した。特に喜びはなくて、ああ、受かったんだな、と、事実だけ受け止めた。

推薦で悠々と都心部の私大に行ける友達、予備校に通える友達が僕の周りを取り巻く「ふつう」だった。僕はあの時、あの場所で、「ふつう」じゃない存在になった。辛いことだけれど、僕は、お金がないなら人より努力するしかない世の中なんだと、身の程を弁えて生きることが正しいことなんだと、そう思った。

大学

大学入ると、お約束の奨学金宣告をされた。アホだった僕は、「母さんも一緒に返すから」という言葉に甘えて、奨学金を借りる旨を承諾した。大学2年生の時、総額が600万近いことを知って驚いた。返すのに何年かかるだろうと、なぜあの時ちゃんと確認しなかったのかと、後悔した。

大学ではサークル活動に特に精を出した。カンボジアに教育支援を行う学生団体に入って、そこで知った「国際協力」に僕は心を惹かれた。現地に行って、途上国という世界が本当に好きになった。初めてカンボジアにいく前、両親が離婚して本当に悲しかったけれど、カンボジアの活発な雰囲気や独特の匂いに元気をもらった僕は、航空券代、その他もろもろ活動費、時間もお金はとにかくかかるけれど、僕は自分の好きなことにそれをつぎ込もうと決めた。

団体の代表に選ばれた僕は、コネや情報を集めるために東京に月1、2くらいのペースで通った。鈍行の電車のチケットを握り締めて、往復四千円くらいかけていろんな人に会いに行った。同じようなことをしている大学生が東京にはたくさんいた。知り合えて嬉しかった反面、もし僕が東京にいたなら、と何度か考えた。ここは、文字通り日本の中心地なんだと、幾度となく思い知った。

それでも機会は地方にもあって、僕は大学の制度を使ってトルコに交換留学をした。当時の(今も)トルコはリラショックで相当な円高、居住費はタダ、英語で授業を受けられる、の三拍子が揃っていて、コストだけ考えたら日本で一人暮らしをするより安かったと思う。僕は団体の活動で空いた時間をTOEFLの勉強に充て、留学に行く資格を得た。

トルコにいる時、国際協力サロン、というオンラインサロンに入った。文字通り国際協力系の情報交換や、イベントを主宰しているSlackベースのサロンだ。僕はこの時、Slackという存在を初めて知り、同年代の大学生でインターンや、すごい活動をしている人たちをたくさん知った。そこは全くの別世界だった。

そういう人たちはたくさんいて、その大半は東京に住んでいる、ということが身にしみてわかった。国際協力系のインターンを探しても、静岡でできるものなんて僕は一つも見たことがない。そういう人たちのSNSの投稿は、僕にはとても輝いて見えて、憧れだけで、なんとか見つけたケニアに向かった。途上国で生活してみたかった。SNSの向こうにある世界に、僕も行きたかった。

そして、僕は去年の9月から今年の2月まで、ケニアの農村部で過ごした。僕は、現地の人たちと生活を共にすればきっとどこかで、僕の世界と彼らの世界は交わると信じてやまなかった。

だけれど、宮城の「しじゅう」で生まれ育った子と東京で生まれ育った子の世界が交わることが決して無いのと同じように、彼らと僕の世界は並行した軌跡を進み続けるのだと思う。とこれを書いていて気づいた。分断って、こういうことなのだろうか。

正直いうと、僕には何が正しいのか分からない。僕の家にはお金がなかった。ないとわかっていたなら、行けるところを探すしかないだろう?と言われてしまったら、僕には何も言い返せない。よそはよそ、うちはうち、と小さい頃から言われてきたように、僕とあの人は違うから。

奨学金だって、ちゃんと理解していたらもしかしたら、別の道を選んでいたかもしれない。でも僕と母さんには、十分に話をする時間もなかったし、そもそもそんな真剣な話なんてほとんどしたことがなかった。父さんは、家にいなかった。

僕は今の大学に進学したことを微塵も後悔していない。むしろ、たくさんの素敵な人や素晴らしい経験をできて感謝すらしている。でも、叶うことがなく潰えた高校生の時の僕の憧れだったり、夢みたいなものは、僕の身の丈に合わない、最初から抱くべきでなかったものだったのだろうか。自分のコントロールできないところで両親の仲が壊れていったのは、何のせいなんだろうか。お金がなかったからだろうか。

甘えと言わればそうなのかもしれないし、少なくとも僕は、自分の力が及ばないところで決定づけられてしまう事項に、ある程度慣れてしまった。高校受験も、大学受験も、就活でもそういう事はあった。「選んだ選択肢を正解にする」という言葉は、そんな僕にぴったりで、打たれ強くなっていくのも感じていた。

でも、どこか間違っている気がするのは、なんでなんだろう。少なくとも、自分の子どもには同じ思いを抱いて欲しくないなと思う。どこに生まれても、やりたいことがあるなら、それを叶えてほしいと思う。たとえ経済的に恵まれなかろうが、どんな田舎に生まれようが。

僕が鈴さんのnoteを読んだとき、自分も同じような経験をしているのに、どこか腑に落ちない不思議な感覚になった。それはきっと、僕の中に自己責任論が染み付いてしまっているからなのだと思う。もうすでにこの現実を、わかり切ったものとして受け入れてしまっている自分がいる。自分でなんとかすべきだったと納得してしまっている。悪いのは、環境ではなく僕だったと、それ以外に自分を納得させる方法を知らない。

今僕は、高校生の時の、あの時の僕になんと伝えるだろう。早く諦めて別の大学を探せというだろうか。高校生の時の僕はどう感じるだろう。そこに、母さんから諦めろと言われたあの時の気持ちと、何か差異はあるのだろうか。

何がいけなかったのかは分からない。これから答えを出していくべきものなのかもしれない。ただ一つはっきりしているのは、僕は自分の子どもたちに同じ思いをして欲しくない。もしかしたら、それで十分なのかもしれない。

「しじゅう」以外の世界から、僕の世界はどう見えるのだろうか。どういう目線で生きてきただろうか。「しじゅう」の世界を見て、何を思うのだろうか。それは、僕がケニアやカンボジアの生活に触れて思ったことと同じだったりするのだろうか。

僕は春から東京に住む。東京で働く。「しじゅう」を離れて、僕にできる事は何だろう。生まれ育った街で、考えてみる。



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熊谷拓己
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