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坂本一成の建築研究1.5決定根拠としての曖昧性

前回までを振り返って

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第一回をやってみて進め方を変えることとする。
当初はテキストを読んでいなくても大まかな内容がわかるように、作品に該当するテキストを、そのテキストの発表年代を問わずに要約してしていた。しかし作品の発表時の解釈と後に対談などで語られる解釈が混同するとわかりにくく、また非常に繊細ともいえる坂本一成のテキストをざっくりと読み進めていく事はあまり意味をなさないことがわかった。したがって、以後は『坂本一成 住宅-日常の詩学』『建築に内在する言葉』に掲載された坂本一成のテキストの精読をベースに適宜、解釈を深めるために他の書籍も参照していく事とする。また作品に関する検証も平行して進めていく。

以後、第一回での議論を元にもう一度振り返っていく事とする。

自律した世界の創造としての〈閉じた箱〉

坂本一成の〈閉じた箱〉というコンセプトは以下のテキストの通り、当時の社会状況の中で活動した建築家の共通認識でもあったことは疑う余地はないだろう。

地域や社会に対立して世界を構成するという〈閉じた箱〉は、入れ子構造の構成のなかに完結した調和的世界を形成しようとしたものであり、ラショナリズム的様相である無機性、即物性といった、社会的意味の消去を標榜する器であった。〈閉じた箱〉という閉鎖的空間は、その頃の私の直感的な空間感覚によるものであったが、この時代の若い建築家が共通にもつ感覚による空間でもあった。

坂本一成『坂本一成 住宅-日常の詩学』p17

白の家の正方形平面を第2の様式で〈立方体〉(キュービック)へと展開していった篠原一男と近い部分がみられる。一方で前回取り上げたように、篠原一男は〈立方体〉に〈亀裂の空間〉を組み込むことでかなり非日常的な空間構成を提案した一方で、坂本一成の作品はスケールを抑えるなどの手つきでクライマックスを避けようとしている。

内部の外部化、それは民家?

「散田の家」の入れ子構造について次のように述べられている。

坂本-箱の中の箱、これは入れ子構造になるわけですね。そういうやり方は他の建築家のつくり方のなかにも出てきます。外部空間を自分の建築の内部につくる。つまり街のようなスペースを建物の内部につくる考え方です。しかし、私には、外部という観念はあったかもしれませんが、街のような空間をつくるという考え方はない。そういう比喩的な表現ではなくて、その当時は意識していなかったのですが、箱の中に箱をつくることによって、内部にもうひとつの箱の外部ができるという空間構成の問題だったわけです。
 そのような構成によってつくられる場所の意味の関係に、興味があった。その後、他の建築家の発言に、そうした場は「路地みたいな」という言い方がされたことがあしたが、私にとってはそういう具体的な場所の比喩的なイメージではなく、建築的な材の配列の構成がつくり出す空間の概念的な意味だったと思います。

坂本一成・多木浩二『対話・建築の思考』p20-21

内部に外部をつくるという空間構成の問題は作品の床仕上げにも見て取れる。一番顕著なのが、「雲野流山の家」のコンクリート平板ブロックの床だろう。主室は内部であるがまるで外部空間のようである。ほかにも「水無瀬の町家」においても二階がフローリング材が敷かれている一方で、一階の主室が白いペンキで塗られた壁に対して黒いリノタイルで仕上げられたことも土間を彷彿させる。これはかなり不確かであるが「散田の家」の床のカーペットの色が茶色であるようにみえるのも土間のイメージがあったのかもしれない。

加えて多くの作品で掃き出し窓を床レベルで使用しないことは箱というコンセプトがあった他に、そこに内外の境界を意識させないことで、内部の外部化を試みたともいえる。

以上のことは、篠原一男、そして篠原研での民家を研究していたことが影響していたのではないだろうか?

意味発生の最小化のための家形

家形の登場は「代田の町家」の初期案がRC造のフラット・ルーフであったが木造に変更されたという偶然的なものであろう。しかし後に〈家型〉となった家形を使用した訳は何であろうか?

さまざまな水準で現れる二次的機能の完全な消去はそれが社会という世界にある限り、論理的に不可能だ。しかし住宅は住宅であるというトートロジーにその二次的機能を含有させることにおいて、多くの意味はその点を除いて消去される。二次的機能を家形というある種の形態に準拠させることで、逆にさまざまな意味を開放させることにならぬか。つまり住宅に家という人の住まう場の概念をトートロジー的に表徴されることで機能性記号化しよう(すなわち機能がそれゆえに発生する意味だけの記号に限定しよう)ということである。そこに住宅において家形にこだわる必要性が見だせると思われるのだが。ここでその家形は必ずしも具体的な家の形を意味するのではなく、具体的なものを通した家の概念を構成するさまざまな水準の関係を示していると理解されたい。

坂本一成『坂本一成 住宅-日常の詩学』p88

前回、引用した部分であるが、住宅が住宅であること以上の意味を発生させたくない。そこで住宅が住宅である雛形として家形を使用していると言え、簡潔にいうと住宅が住宅以外に見られてしまうことを避けたいといった具合だろう。

設計根拠としての曖昧性、宙吊りな表現

作品の各所について、前回までで指摘した坂本一成のアンビバレントな精神性が決断根拠になっているという視点でみていきたい。

具体例として、第一回では「坂田山附の家」が取り上げられた。
まず片側だけのポツ窓によってシンメトリーな立面が回避されていること。窓やドアが外装材の目地からズレされている事。そして二階の窓には既製品の掃き出し窓が使われているが、下部が二階の床レベルより高い位置にあることが挙げられる。

掃き出し窓を一般的な掃き出し窓とは異なる用途で用いている点など、それらは宙吊りな表現だと言える。

意味の消去のマニエリズム化

意味の消去と言いながらも、それが何もないことと同値ではない。ここで坂本一成の建築において建築の構築性がどう表現されているかをみていく。

第一回の議論の中で、坂本一成の作品群において、逆にわざと意味を消そうとしているのが見て取れてしまうことは、すなわち意味を成している事と同値ではないか?という指摘が挙がった。しかし、確定的な見方をすることが難しいのであれば、それは許容内であるとも理解できる。

一方で意味の消去がやがてマニエリズム化して、その手つきが表現として使われていったことは否定できない。特に顕著なのは「今宿の家」であり玄関や窓に柱架構を露出させるなど、かなり顕著に表現として扱っている。これもその実体に対して単一の意味を付与させず、曖昧な表現であるのであればよいということなのか?

坂本一成は後に「意味の零度」など存在しないと気付いたことが述べられている。

当時は、そういう付着した社会的な意味みたいなものを消去したいという言い方をしていました。これは「意味の零度」までもっていきたいと思ったのですが、結局、意味の零度なんかないということに後に気がつきました。社会が成立している限り、われわれはものごとに常に何らかの意味をつけていますから、それを消すことはできません。ただ、中性的に浮かせることでしかないのではないかということです。たぶんその後の材料の使い方などが変わってきた理由の一つは、零度は成立できないと思い始めたことと関係があるような気がします。

坂本一成 等『建築を思考するディメンション 坂本一成との対話』p216-217

つまり、意味が生じてしまうかどうかではなく、曖昧な解釈にとどまれるかどうか?判断根拠を拡張していったと言えるのではないだろうか?

今回、曖昧さという言葉が出てきたが、ヴェンチューリとの関係についても今後議論していく余地がある。

構成と構築-架構体の表現-

建築を構成するにあたって、架構は力学的な特性を超えて、架構体はその形態とそれが表出されるか否かによって特性の異なる空間が表現される。坂本一成の架構の扱い方をみていくと、「散田の家」での経験から以後、しばらくは独立柱が使用されていないが、一方で構造材の表出が全くみられないということではない。たとえばスラスト材を取り上げると、「水無瀬の家」や「南湖の家」でインテリアとなっている勾配の天井面に表れている。構造を全くみせず抽象的に表現することも不可能ではないが、表出させている。しかしながら、篠原一男のような象徴的な扱いもしていない。このようなどっちつかずな架構の表現を『建築を思考するディメンション 坂本一成との対話』において、内藤廣は「宙づりな表現を意図的につくっている」と指摘している。

近年もレトリックとして架構体が表出する事例がみられる。たとえば青木淳の「青森県立美術館」においても開口部がブレースのある位置にあけられている。こうした表現は、建築の構築性がより表現されているとも捉えられるが、おそらく空間を体験する建築の専門家ではない人々にとっては無関係であり、建築家自身の問題であるように感じる。こうしたレトリックの実体表現につきまとう諸問題にどう向き合えばいいのだろうか?




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