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桐光学園。ピカピカの1年生!(地獄の1年生時代)

※サムネ インターハイ全国決勝(1年生時)アップに行く桐光学園の選手

地獄を見ないと、何が苦しくて、何が嬉しいのかもわかんない。それが本当に地獄だったのか?それもわからない。
ずっとわからない。けど、その時「地獄だ。」
と思う経験はしておくべき。

哲学的な話!?ですが、
こっから高校サッカー編。になります。

中学生時代のことまではひとつ前のnoteで書きましたが、高校入学の経緯もかなり大事なPartなので、もう少し中学時代に触れつつ高校サッカー編へと進めていきます。
↓前回note 小学生、中学生時代

所属していたクラブテアトロJYは県内屈指の強豪!!というわけではなく
記憶が正しければクラブユース、高円宮杯共に関東大会に進んだことは
入団時点ではなかったはず。
ただ、神奈川県リーグでは1部に所属して、関東大会に行ける実力は
毎年のチームが持ち合わせていたと思います。

サッカーの世界では基本的に夏の大会が進路を左右します。
中学なら、クラブユース。
高校なら、インターハイ。
または、下級生時でに上記大会や高円宮杯、選手権での活躍。

注目度うんぬんはありますが、多くの強豪校やユース、プロのスカウトの方々はこの辺の大会での活躍に目をつけてくれるという印象がありました。

下級生時、試合に出られなかった自分にとっては
「中学3年生、夏のクラブユース」ここにすべてが懸かっていました。
強豪校に行かなきゃプロは無理。やってやる。
極端な思考ですが、中学生の自分は本当にそう思っていました。
たくさんプロの選手が出ている高校でないと、注目されないから難しい。
そんな強い気持ちを持って臨んだことを覚えています。

幸い、仲間にも、指導者にも、運にも恵まれ神奈川県優勝で大会を終えることができました。初の関東大会出場もすごく嬉しかったです。

「桐光学園から声がかかった。1回練習に参加してこい。」

そういわれた時めちゃくちゃびっくりしたし、クラブテアトロの先輩で
桐光学園に進んだ人もいなかったので正直自分の頭には全くなかったくらい雲の上の存在という認識でした。

忘れもしない15歳の誕生日、桐光学園の練習に参加させてもらいました。
初めて感じる強豪校独特の味わったことのない緊張感、ピリピリした雰囲気が怖く、桐光学園ではなく、別日に練習参加させてもらい、印象が良かった日大藤沢に行こうかな?と、かなり迷っていました。

また、桐光学園のスポーツ推薦には決められた枠があり、そのスポーツ推薦枠は既にいっぱいなので、内申43以上と面接で受験をし、一般クラスで入ってほしい。と言われたことが迷う要因でした。この桐光学園からの提案が何を意味するかというと、サッカーの実力は足りてないよ。という意味です。
桐光学園のスポーツ推薦枠には届かない。けれど頭がいいなら、このやり方で入れるよ。というお誘いということです。

やっぱり俺に、桐光学園は見合わないよな。
監督が直接欲しいと言ってくれているし、日大藤沢に行こう。
という弱気な自分がいました。

ただ、思い返せば高校サッカーに強くあこがれを抱いたのは、
「第94回全国高校サッカー選手権大会3回戦 青森山田vs桐光学園」
がきっかけでした。
三ツ沢で高校サッカー史に残るゲームを生で目の当たりにしました。
(マック食べながら見てたのは内緒です笑)

うまくて、強くて、ユニフォームがかっこいい、桐光学園。
奇跡というか「伝説」を目の当たりにさせてくれた青森山田。

どこからもオファーがなければ、青森山田にセレクションに行こう。
とずっと思っていたので、この2チームへの憧れはかなり強かったです。
(後に、この両者の監督にご指導いただける日がくるとは笑)

桐光学園に行けるチャンスがあって逃げていいのか?

どちらに進んでも強豪には変わりなく、試合に出れるか出れないかで言えば出れない確率の方が高い。そんなのは実力がない自分の立場であれば、どこに行っても同じ。

「それなら厳しいと思う方。

難しい方を選んでそれを正解にする!」


そう覚悟を決めて桐光学園に入学することを決めました。
(※紆余曲折あって最終的には、スポーツ推薦枠で入学しました。
桐光学園に対してそこまで気持ちがあるなら。と枠を空けてくれたという説と誰かが断って入れたという説がありますがこれは神のみぞ知ります。笑)

この決断をして以降、自分のサッカーに対する意識は格段に上がりました。
あの憧れの桐光学園にいく。練習もきつい。レベルも高い。
雲の上の桐光学園、いう認識だったので自分のすべて変えないといけない。
そう思って、桐光学園入学までの日々を過ごしました。

お菓子、炭酸をやめて(もとから食うなよ笑)
デブだったから痩せて(まずなんで太ってるねん笑)
親に協力してもらって食事もかなり変えて(ありがとう)
毎日朝走りこんで(いまさらかい笑)
大っ嫌いだった体幹と筋トレもたくさんして(なんで嫌いだった?笑)
練習場の電気が消えるまでサッカーして(サッカー大好きは変わらず)
人生で1番大切な時間でした。

「やれ」「大事だよ」と人にいわれてもやる気にならなかった全てが、自分で必要性に気づいて、危機感を覚えれば、こんなにも必死に取り組めるもんなんだなと。
そして続ければ、自分は変わっていくし、努力は裏切らないんだな。という成功体験を得られました。

自分で気づく。自発的にやる。結局これがカギなんだなと。
「常に自分の課題を探して、それに気づいて危機感を覚えよう。」
これが本当にターニングポイントで、大きな学びでした。

晴れて、桐光学園に入学。

「入学式」
心躍らせて、入学しました。
入学式後、先輩たちの教室に呼ばれます。
「昼休み2ー9集合」と。
一発芸をやるという噂は聞いていたので、1年生みんなで向かいました。

ガラガラ。
自分が、1人目として教室に入りました。教室は真っ暗。
「失礼します。でその後に名乗るのが礼儀だろ。」そう先輩に言われ、
やり直しました。
この時点で一発芸なんて生易しいもんではないと確信しました。
「失礼します。1年の奈良坂巧です。」
3年生の先輩、2年生の先輩、
しかも野球、バスケ、柔道、剣道、水泳、ハンドボール
すべてのスポーツクラスの先輩が勢揃いでした。
続けてみんなも入ってきます。
「声が小さい」
「おまえが○○か」
先輩からの怒号が飛び交います。
もう冷や汗かきまくりで、足はずっと震えてました。

全員入って列になってから、準備期間にあった出来事について先輩が話します。※準備期間というのは、1月~3月の入学式までの間に部活に参加する。
という期間です。

「準備期間に彼女とディズニーランド行って休んだやつ前でてこい」
「練習以外で呼び捨て、ため口使ったやつでてこい」
いろんな粗相が先輩の口から出てきます。

もうとにかく怖いです。今になれば最初のセリフをガチで怒っている雰囲気で笑わずに言えた先輩たちはすごいし、仲良しこよしの集団になってはいけないし、全国制覇を目指す集団の1人がディズニーの誘惑に負けたらだめだし、ピリッとした雰囲気を維持するためにも上下関係はある程度大切だし、
「挨拶は座ったままでなく立って自分からする」「エレベーターは先輩が先に降りる、下級生は開くボタンを押しておく」などなど社会に出てからも役に立つような大切な教えだと思うし、他にもいろんな理由が考えられます。
※実際今年のキャンプで、高校生の練習生が昌子源選手ら大先輩方より
誰よりも早くエレベーターを降りたことがありました。誰も怒りはしないし、時代だし、良いんだけど、俺はかなり焦りました(笑)

とはいえ当事者時代はビビりまくっていて、入学してから半年くらいは、
部活に行くのが、先輩たちと会うのが、怖くてたまらなかったです(笑)
※1年後、新1年生の入学式の日、監督に言われました。
「あれまだやってるなら時代的にアウトだからやめろ」と。
「まあ、ですよね。」と思うと同時に監督もOBです。
「そんな長い歴史なのー(笑)」
それと同時に「2―9」「カチリ」と呼ばれる儀式の、長いながーい歴史は
終わりを迎えました。
後輩の皆さん、安心して桐光学園に入学してください。

いかにも強豪校らしい昭和な儀式を体験して、人として強くなり
成長し、毎日の練習に励みました。
桐光学園の素晴らしい所と先輩たちのすごいなと思う所は、
練習中はため口使ってオッケーで、どれだけ意見しても、激しくプレーしてもそれに対して下級生という理由で怒られることはないところです。
まさに、「サッカーに年齢は関係ない。」というフィールドでした。


自分は1年生の5月からなぜかAチームでプレーさせてもらえました。
Aチームに昇格した日は今でも覚えています。
1年vs2年vs3年で紅白戦を総当たりでやって、結果は覚えていないし、
いいプレーをした覚えもそんなにないですが、
「誰よりも闘っていたのは巧だ。声も出てる。球際も体ごといってる。」
そう勝さんが言ってくれたのを覚えています。※勝さん=鈴木勝大監督
次の日、自分の名前のマグネットはAチームにありました。
挨拶などするくらいで、勝さんの口から自分の名前を聞いたのもその日が初めてでした。

「Aチーム」
もう、とにかく必死に食らいつきました。ボール回しをすればずっと鬼だし、股通されまくるし、みんなうまいし。
唯一通用したのは、球際で奪うこと、ヘディング。だけでした。
ただ、結果的にこの武器のお陰で、そこからずっとAチームでプレーさせてもらいました。当時自分はボランチでプレーしていて、レギュラーでボランチの先輩は背が大きいわけではなかったので、ヘディングというのが運よく自分だけの武器になってくれました。

朝練も毎日行きました。桐光学園は朝練が自由でした。
自分には課題しかないからやらない選択肢はないです。
きついから休みたい。とかはなく、やるしかない感じでした。
練習が終わって23時とかに自宅に帰ってきて、5時に起きて電車とバスで向かう。これを繰り返しました。マジで今考えたら化け物です。
怪我しなくてほんと良かった。(笑)強く生んでくれた親に感謝。
毎日遅い時間に帰宅して、朝早くに出発。でも手料理を作って、
弁当も、おにぎりもたくさん持たせてくれた親に感謝。
後から聞いた話ですが、毎日朝練していたのも監督が評価してくれたポイントだったみたいです。監督を朝練で見るのは週1くらいだったので、やっぱりどこで、誰が、どんなところから、見ているかはわからないですね。
※時には朝練に行って、ただただ前日のCLスーパーゴールを自分で実況しながら、ゴールパフォーマンスまで再現して、仲間たちと、ただただサッカーを楽しんでいた日もあります。(笑)やばいやつすぎるけど、今思うと、これがいいバランス生んでたな。

てな感じで、高校1年生の時は運よくAチームで過ごしました。
インターハイ予選の決勝で、連戦だったため、西川潤くんの代わりに自分が
スタメンで出て、負けて、試合後に学校に帰って練習する。
俗にいう「帰って練」を生み出したこともあります。
(ほんとに先輩たち、その節はすいませんでした)
インターハイ前は、真夏のクソみたいに暑い時期に、5泊6日で校内合宿と呼ばれる地獄イベントが開催されました。学校に寝泊まりし「5時出走」という怖すぎるパワーワードを合言葉に1日が始まり、食事は3食どれも1テーブル3~4人で10合食べる。9時も出走、14時からはボール使って追い込み、17時からはプールで決められた時間、足を付かずに泳ぎまくるor筋トレを鬼のように。筋肉痛とあと何回練習するのか(初日終えてもあと20部練残ってます)を数えて吐きそうになりながら朝を迎えて気づけばまた「5時出走」というスーパー根性イベントも乗り越えました。

10合の米と奈良坂(左)と前川(右)


そのかいあって!?(笑)インターハイ全国大会は準優勝。

プリンスリーグも多々使ってもらったけど、貢献するような活躍はできず、降格を経験。

冬、憧れの「選手権」
初戦で熊本の大津高校に0-5で負けて敗退。ピッチに立てず。ベンチに座って、アップして、見てることしかできなかった。
これが、最初で最後の高校サッカー選手権大会出場となった。

まだまだ書ききれないくらい思い出はあります。とても濃い生活でしたし、
一気に人生が変わって、大舞台も経験させてもらって、
マックを食べて選手権をお客さんとして見ていたデブ時代からは想像できない、景色をたくさん見ることができました。
(痩せて入学したことも、ちゃんと絞ってきたな。と
評価を上げたポイントだったらしいです。つくづく運が良すぎる。笑)

ダメですね。やっぱり長くなりすぎます。
ま、濃い人生なのは良いことだ。

高校サッカー編、今回は1年生編ですね。
また続きアップします。

こうやって振り返ってみると、今の自分がいかにして今の自分なのかが分かるし、大切にしないといけない学び、事柄もたくさん、クリアに見えてきますね。時間をかけて考えながら振り返ってみてよかったなと思います。
こうやって振り返ってみて尚且つ皆様に届ける、伝える言葉にしてみる。
ということは怪我をしないとやらなかったことだと思うので、
やはりこの怪我にも大きな意味があって、パワーアップ、成長、
自分を見つめなおす。という期間だなと確信しました。

やるぞー!這い上がるぞー!

最後まで読んでくださりありがとうございます。では、また。

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