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ドM心の発露と褒められる確率

タイトルは後で書くことにしまして、また今日も句点一個に決めて何が出てくるかワクワクしつつ進めているわけなんですが、さて、前回にアップした「古本喫茶の本棚、あなたならどう作りますか?」の記事では、平常の文章で書けたようなんですけど、これが僕にとってちょっと大切な事実のように感じていまして、
というのは、ここ最近の8つの記事は、どうしても普通の書き方では進められなくてですね、ここ1〜2ヶ月ほど、鬱のような状態が続いておりまして、生活には支障がないのですが、読み書きに関する能力というか脳の部分が、炎症を起こしているようにフリーズしてまして、差し当たり、できることというのが、照れ隠し、逃避、ドM心の発露?から来ているのでしょうか、句点を一つに決めて書いてみるというものなのですが、
どうやら、その古本喫茶についての記事は、普通の文章で書けたようでして、難なくってほどではないんですが、まあ、すいすいと書けたんですけども、それが不思議でありまして、なぜかと考えてみると、古本喫茶の記事は、自分のため、というより、人のために書いた割合が大きくてですね、そこの店主と雑談しつつ伺ったことで、本棚をどう見せていくかっていう、ある種の「悩み」みたいなものを、解消することに重きを置いた記事でありまして、人の役に立ちたいという思いが強いというか、まあ、恥ずかしさに目を瞑りつつ、この思いをわかりやすく言語化してみると、「褒められる」ことを期待してたようであって、そのあたりを主眼とすると、どうやら普通の文章も書けるみたいで、これが僕にとって発見であり、今かなり恥ずかしいんですけども、でもそれで思い出したのは、最近読んだ、坂口恭平さんの「躁鬱大学」っていう本がありまして、そこでは、躁鬱人の特徴として、「人から褒められるために生きている」、というぐらいにはっきりと書いてあったわけで、なるほど、躁鬱の現象の一部か、なんて認識すると、ずいぶん楽になったというか、惜しげなく、人の評価を得ようとするのも悪くないんじゃないか、なんて考えてるわけなんですけど、それが実際、現に自分のための記事は書けなくて、人のための記事だったら書ける、という状態を体験している最中でありまして、
いや、どうなんだろう、ちょっとわからなくなってきたぞ、さっきから何度もキーボードを叩く手が止まっていて、何かが言語野の作動を邪魔しているような気がしてるんですが、探ってみましょうか、こんなときは歩いて足を動かすのをよくやるんですが、歩いてきました、何か複雑にしている要素を2つほど見つけまして、ひとつは、褒められるために書く、というのが、やはり、完全同意は難しいというか、それが特徴なんだから諦めろ、みたいなことをその「躁鬱大学」では書いていたのですが、そこまではいけてないんでしょう、慣れてないというか、自分の満足度に目を向けている側面はやはりあって、もうひとつは、褒められるために書くのなら、なんでこんな変な書き方をしてるんだよ、ってな感じでして、逆に振り切れているのなら、褒められるための技巧をフルに使って然るべきなんだけども、それができてないのはなんでかって話になってくるんですけども、こっちは多分、自信のなさの現れなんでしょう、全力を込めて打ち出したものが、思ったより褒められなかったときが怖くて、そこから逃げて、照れ隠しのように、中途半端な書き方をしていて、そこを見つめたくなくて、認めたくなくて、手が止まっていたのではないかと予想するのでが、たぶんこのあたりが本当っぽいし、まだなんだろ、書く手が重い気がしてきて、ちょっと楽しくなくなってきたんですけども、掘り下げる価値はありそうだし、それでもこう、書かないよりはマシで、読んでくださるあなたのおかげで、全く書かない状況は回避できているわけで、感謝の念がやはり絶えないわけなんですけども、結局は自信のない自分をどうにか奮い立たせる勇気が不足しており、普通の文章は書けないが、人のためであれば、褒められる確率が高いので、そっちになら取り組める、というのが、結論っぽい気がしてきたので、このあたりで締めようかと思うのですが、なんだろう、いかがでしょうか、あんまり楽しくない話でしたね、でも、自分の大事なことに気づけたというか、それを、句点を使わずではあるけれど、文章にできたし、そこは褒めてもいいんじゃないかと、あっ、褒められた、自分にだけど、ああ、これかな。


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たくまる
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