左川ちか覚書4「左川ちかの地獄~「太陽の娘」より~」

今回は、左川ちかの詩世界が織り成す「地獄」は、一般的な意味ではないのではないか、と示す。手がかりは「太陽の娘」という詩なのだが、この詩は私の手元にある二冊の本、島田龍編の「左川ちか全集」と、川崎賢子編の「左川ちか詩集」で、題名が異なっているのである。前者では「太陽の娘」、後者では「太陽の唄」となっている。
島田龍編の全集の異同を見てみると、まずは「太陽の唄」として、次に「太陽の娘」と解題されて、それぞれ別の雑誌に投稿されている(まず『るねっさんす』二号、次に『詩法』十二号、どちらも一九三五年の刊行であるようだ)。また、その他異同が多く見られる。(1)
一方川崎賢子編の「左川ちか詩集」では、掲載は最初の『るねっさんす』のみとしてあり、また異同ナシとしてある。(2)
以上の理由から、とりあえず解題された方の題名でこの詩を「太陽の娘」と呼ぶことにするが、原テキストに近いものがどちらなのか、そしてどれなのか釈然としないため、今回はいつものように一行ずつ分析していくことは断念する。

しかし、この詩には「そこにはダンテの地獄はないのだから」という一行があり、この行に限っては異同は存在しないようだ。
そしてこの一行には重大な意味があるように思われる。なぜなら、左川ちかの詩は「地獄」のような詩世界を描くにも関わらず、それはダンテの「神曲」が示す一般的な「地獄」とは違うと示唆されているからだ。
左川ちかにとっての「地獄」は、いかなるものだったのだろうか。

 ここでは、「ダンテの『地獄』はいかなるものだったか?」という問には深入りしないようにする。単純に広すぎて、私が本稿で扱えるようなテーマではないからだ。ここでは左川ちかの言う「ダンテの地獄」を一般的な「天国と地獄」という観念における、キリスト教的な地獄、とだけしておく。
 さて、いくら「ダンテの地獄とは?」と頭を悩ませたところで、左川ちかは「そこにはダンテの地獄はないのだから」と言っているため、今回の問に直接的な答えが出るわけでもないだろう。
 とりあえず、かの行にいたるまでの流れを、島田龍編の全集から見ていく。

「白い肉体が/熱風に渦巻きながら/刈りとられた闇にひざまづく/日光と快楽に倦んだ獣どもが/夜の代用物に向つて吠えたてる/そこにはダンテの地獄はないのだから」

 さて、ダンテに関して完全に素人の私でも言えることだが、「太陽の娘」は「神曲」と違って「獣」などにも着目している。人間らしきものは最初の「白い肉体」でしか示唆されないし、人間の観念に関しては最後に「青春」について言及しているのみである(この行には異同がある)。
「白い肉体」を「裸の人間」のように見た時、彼(ら/女/女ら)は「熱風」に「渦巻」かれながら、「刈りとられた闇に」に屈服する。そして、「獣」たちは「夜の代用物」に向かって吠える。
「刈りとられた闇」「夜の代用物」という特異な語を眺める時、そこには「元にあった闇」「ほんものの夜」の存在が暗に示唆されていると気付く。しかし、「それら」は「ここ」にはないのだ。では、「ここ」にあるのは何だろうか?空虚なものを感じる。無?しかし「獣」たちは「日光と快楽に倦んで」いる。ということは、ここには「日光と快楽」は少なくとも、あるはずだ。ということは、この詩の情景は、暗くないのではないだろうか。地獄は暗いはずだ。そこがちがうのか。
肉体の白や、日光が存在する「ここ」にすむ生物たちは「夜」や「闇」を待ちかねているのではないだろうか。しかしそこには誤魔化しの「夜」しか来ない。
だとすれば、「そこにダンテの地獄はないのだから」という詩行の意味も理解できる。
「神曲」では主人公ダンテは夕刻、「地獄の門」をくぐって地獄へと至った。ボッティチェリの絵画『地獄の見取り図』にもあるように、地獄は下へ下へと続いていき、ダンテはそれを下り続ける。ダンテ的な地獄には、まあ少なくとも「闇」「下降」といったテーマが反映されていると言えるだろう。
しかし、この「太陽の娘」という詩には、そのような地獄はないのだ。そこにあるのは、まがいものの夜のだけである。
 つまり、左川ちかの地獄は、太陽や昼の世界の反対物としての情景ではなく、そうした昼↔夜のような対立関係を無視するものだと言える。
 ではどういったものか。
私は左川ちかの地獄とは「暴力」であると主張したい。
 あったはずのものがない世界。そこにあるのは、正常な世界を捻じ曲げる「暴力」が存在している。「異常さ」という言葉を当てはめてもいいかもしれない。しかし、それは少し違うように思われる。
 なぜなら、たんなる「異常さ」は「昼↔夜」の様な対立関係の反対を踏んでいけば簡単に
表現できる。しかし、「刈りとられた」闇、夜の「代用物」といった表現にそうした二項対立を踏んだ形跡は見えない。「正常」の否定語としての「異常」は左川ちかの地獄にはそぐわない。
 左川ちかの地獄は暴力的に歪んでいる。そして入違っているものは、一般的な二項対立を無視している。それを思って「太陽の娘」の後半を見ていく。
「雪はギヤマンの鏡の中で/カアヴする/その翅を光のやうにひろげる」
とあり、雪が光の反射でゆがんでいると読みそうだが、これも雪が「カアヴ」、つまり「曲がって」おり、それは光の「ように」翅を広げる。この詩行のどこにも、鏡に光が反射しているとは書いていない。暗喩の位置を入れ替えて、我々のよくなじんだ世界へと詩の意味を還元する理由はどこにもない。
ここはダンテ的でない、別の地獄である。
 さらに次へ行くと、
「ヴエルは/破れた空中の音楽をかくす」
とある。これも、通常とは入違った物質の様態がある。音楽が破れ、それをヴエルが隠している。
 雪も音楽も、暴力的に歪められている。この変容のスピードと、

さて、この詩は、最後「声のない季節は/どちらの岸で/青春と栄光に輝くのか」と締めくくられている。

 私は、左川ちかの地獄は、あからさまな二項対立の「陰」の方へと進んでいるのではなく、自然が、「暴力的に」うごめき、変容している様を描くことで描かれていると主張する。

2025/01/06


詩の引用はすべて
島田龍編 左川ちか『太陽の娘』「左川ちか全集」p.117書肆侃侃房.
より。

(1)島田龍編 島田龍『年譜・解題・解説」「左川ちか全集」p.343下段~p.344上段書肆侃侃房.
(2)川崎賢子編 川崎賢子『校異』「左川ちか詩集」p.203岩波文庫.

参考として
川崎賢子編『太陽の唄』「左川ちか詩集」p.124~125岩波文庫.


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