見出し画像

日記1/29

天才は夏に二度死ぬという話を聞いたことがあるだろうか。
今は僕が作った言葉なので誰も知らないはずだ。でも、誰かがこれで「知ってるかもなあ」と思ったら、僕は笑うはずだけれども、
でも、そのことを僕は知りようがない。だから、僕は笑わないし、あなたは笑えない。天才は冬に二度死ぬんだ。そういうこと、あるよね。

さて、意味不明な感じで始まりました日記ですね。今日は、新NISAを始めました。NISAって一言でいうと「投資で得た利益に税金をかけない」っていうドチャクソぶっ壊れ神制度らしいですね。祖母と雑談してるときに何となく投資の話になって、何となく調べてみると、NISAが神すぎるってことに気付いたので即、積み立て設定しました。えらいよねえ、自分。

さて、その後、クラウドソーシングとか眺めていたわけで、まあなんとなく、心が労働モードになりますねえ。何件か応募したあと、読書に戻ったが、なんか読みずらい。やっぱり、読書ってそういう側面がある。もしかすると、慣れないことしただけかもしれないけども。

読んだ本はA・P・マンディアルグの「ボマルツォの怪物」(澁澤龍彦訳)と養老孟司の「死の壁」だった。これらは読み切って、途中で渡辺広士訳の「ロートレアモン全集」を100ページほど進めた。今日の読書はそれだけで、あまりなんとも言えません。
自室で、電気マットを中心に敷いて、しかしその電気マットは机のところまで無いので、仕方なくそれに横になる。自分の頭の影で、本が読みづらい。そのあと、電気マットにいろいろな塵が付いているのを感じて、それがどうせ自分の塵なので別にいいか、と思いつつも、なんとなく居心地が悪い。
何十年と生きて、まだ自分の部屋でどう本を読むのか、その姿勢を見つけらせずにいる。一番いいのは、ベットか、ソファの前に膝まづいて、クッションを枕にして読むことだ。和室でごろごろ読むのもいい。

ああ、そうだ。フーコーの「知の考古学」も読み始めた。フーコーって、すごいんだよね。著者紹介のところに「20世紀後半最大の思想家」とか書いてある。


フランスのシュールレアリスム文学について、一個だけ解せぬ点がある。
なんで、子供を殺したり、痛めつけたりするのだろうか?これだけがよくわからないというか、実際のところ読みたくなくなって不愉快だから、文句の一つも言いたくなる。ロートレアモンの「マルドールの歌」にしても、今日読んだマンディアルグの「イギリス人」という小説にしても、結局「子供を痛めつけられ、殺される母親」がその惨事を自ら語ったり、あまつさえ凌辱されていたりする。読んでいて気分が悪いだけで、これが面白いとは思えない。澁澤龍彦の「サド復活」の中の「暗黒のユーモア、あるいは文学的テロル」の中でも、同様に子供を殺したり食ったりする、という冗談が紹介されるが、これも、文字通り冗談じゃない。
これの効果について、単なる倫理的な逆張り精神なのか、それとも読者にショックを与えたいのか、もしくは人間の生への形而上的な意味合いがあるのか、それは場合によりけりだと思うが、いかんせん単純すぎるのではないだろうか。狙いが分かりやすすぎるというよりは、「そういう」狙い以外見えなくなる。「気持ちが悪い」をやりたいなら、他にいくらでもやりようはあるだろうに、単純で残酷に子供を痛めつけるのか、ちょっとわからない。

ただ、僕も「子供」だけはどうしても特別扱いしたくなってしまう側面があるのだけれども、ただ、例えばマルロドールの歌の中でどうしてこれだけが駄目で、それ以外の詩はすべていいのか、ということを説明してみろと言われると弱ってしまう。ロートレアモンの詩を読んでいると、「俺は孤独だ」ということだけが分かる。ただ、彼はもう何かしらのつながりみたいなものをどこまでも求めようとはしていなかったことが、「マルロドールの歌」からわかる。どこまでも「俺は人間社会から友情も愛情も必要とはしていなくて、ああ、それでこのマルロドールってやつはこうして暴れていて・・・」という風に貴族的な振舞いを、何百ページにわたってずっと続けられるなら、やっぱり「切って」しまっているのだろうか。
そうした内的な世界への破壊のバリエーションの一つとして、「子供=母親」という図式を破壊したくなったのなら、まあ、紙の上でだけそうするのなら、わからなくもない。ただ、僕はやっぱり、子供と触れ合う機会の多い状況にいるので、ロートレアモンのその箇所にだけはやっぱり共感できない。ただ、共感できない人が大多数だったとして、それがロートレアモンが創作を止める理由にもならなかっただろうし、そしてそれを印刷しない理由にも、買って読まない理由にもならない。彼は異星人などではないはずだ。

さて、今日も本を読んで、ちょっとした手続きもやって、いい一日だった。


いいなと思ったら応援しよう!