日記1/5「微熱と『帝都物語』そして小林秀雄」
どうも、詩人のカマンベール春近です。日記を始めます。
今日は家族の風邪をもらい、37.4度ほどの熱が出てたので、ずっと臥せってました。日記初日から何もしなくてごめんなさい。
ぼやっとしながら、バイト先に連絡して、普通に冷たい(だってまだ三回しか働いてない)社員さんに怒られました。
寝ながら見ていた映画は「帝都物語」。途中でしんどくなったので、最後まで見れていませんが、かなりアホでよかったですね。
軽くあらすじを言うと、平将門の霊を叩き起こして東京を神聖なる場所に戻したい加藤という悪い奴(軍服巨漢、星型マークの人)と東京を守るために陰陽師、風水師、物理学者らが戦う、という話です。
しかしアホといっても、映画アホのことを指すので、つまり「いいものを作ろう」という気概が感じられましたね。たとえば、敵役、加藤の腕が切られて、それがくっつくところ(むずかしい肉感を、一瞬で表現していてよかった)や、紙が式神コウモリさんに変化するところなどの映像技術なんかが良かった。
また、「人造人間学天則」や「地震は地相の共振」みたいなバカさ加減が最高でした。
あと、個人的に、佐野史郎が出てたので良かったです。林海象監督の「夢見るように眠りたい」で主役の探偵・魚塚を演じている佐野史郎さんがハマりすぎてて、私は彼が大好きなんです。今回はうじうじしてる男の役でしたね。(それも佐野史郎の顔と雰囲気あってのこと、佐野史郎かっこいい。)
さて、夕食のあと「よそのモノポリー」という詩を書きました。この詩は現代詩手帖かどこかに投稿してからnoteにのせようと思います。
その詩の中で、「茶碗で牛乳を飲んで」という言い回しを使いました。これは私のオリジナルでもなんでもなく、小林秀雄の記述を元ネタにしています。「真贋」という作品で、彼の知り合いである「瀬津」さんとⅯさんの間の芸術品をめぐるごたごたを眺めながら、小林秀雄は、「(略)この茶碗だけは大事にしている。尤も私は茶の方は不案内であるから、それで紅茶や牛乳を飲んでいる。」と言っています。彼の飄々とした態度と、茶碗に牛乳と紅茶というギャップが好ましくって、なんだか記憶に残っている記述です。
クールキャラの小林秀雄の茶目っ気が覗く箇所は、読んでいて面白いですね。
始めて大学の図書館に行ったとき、職員さんに小林秀雄の「モオツァルト」を探してもらったことがあります。幸い、うちの大学には新潮社の全集がありまして、その第八巻「モオツァルト 1496~1498」を私が借りる時、その職員さんは「まあ、彼は難解な批評をしていますから、ゆっくりよんで構いませんよ。」と言ってくださったことを覚えています。
しかし私には、小林秀雄が「難解」であるとは、どうも思いません。その後、新潮文庫の方で「モオツァルト・無常ということ」を買って読みましたが、切れ味が良すぎるのと、それとそもそも見えている地点が違いすぎるのでとっつきにくいだけで、言っていることは至極真っ当ごもっともなことしか言っていないように思えるのです。
例えば、「モオツァルトはピアニストの試金石だとよく言われることだ。彼のピアノ曲の様な単純で純粋な音の持続に於いては、演奏者の腕の不正確は直ぐ露顕せざるを得ない。」(1)という箇所を、先の「モオツァルト」の10節の初めから抜いてみます。
彼の潔い断定が、言い切りの姿勢が文体そのものにあふれています。これを見た時、我々はちょっとたじろいでしまいます。しかし、モオツァルトのピアノ曲の音は単純で純粋だと自信を持って言い切っていて、そこに衒いも恥もありません。
私のような凡夫が音楽について語るとき、(いや、でも音楽の専門家さんやほかの愛好家さんたちはそんなこと思わないんじゃないだろうか・・・)と不安にありながら話してしまいます。
もしくは、「どうだ、みんなこういう風には見えない(聴こえない)だろう」と言う風なおどかしでものを言ってしまうときもあります。
小林秀雄にはそうした凡夫のためらいや逡巡が一切なく、ズバッと言ってのけているところが、とてもかっこよく、惚れ惚れしてしまいます。
さて、note初の日記はこれまでにしたいと思います。どうか皆様、今後ともよろしくお願い致します。
(1)小林秀雄(2022)『モオツァルト』「モオツァルト・無常ということ」(p.49)新潮社.