傘もささずに(短編小説)
雨が降っている夜です。
こんなに雨音を感じているのはいつぶりだろうかと思いながらただぼんやりとあの人と過ごしたいくつかの日のことを考えています。
最近折りたたみ傘を買おうと思って新宿うろうろしたけれど、結局あんまり売っていなくてハンズに行きました。
当たり前に5000円くらいしたのでえっ、傘ってこんなに高いんだっけ?とひよって買えなかったというか、緊急で必要な時に買えばいいだろうと高をくくって積極的に買わなかった。
緊急の時にハンズが近くにあるかも分からないのにね。
家に帰るとあの日待ち合わせ直後に壊れた1000円ちょっとの折りたたみ傘が玄関に落ちていて、お前まだここにいたのかと思った。
留まり続ける傘に対してそう思うということは自分はもうそこにはいないと誇らしげなようでいて、見下してるようでもあり、でも僕は今どこにいますか?
ところで僕はその人公認のストーカーなのですが、通りがかりに家の外観をちらちら見たり、SNSを必要以上に巡回するだけの、実害のないタイプのゆるいストーカーで普通に2人で飲みに行ったりすることもある割と健全な関係性だと思っています。
飲んだ帰りに突然の雨に濡れながら傘もささずにふたりで帰っていた夜がありました。
傘をささない許容量を絶妙に溢れるぐらいの降り具合で、僕は何度もコンビニで傘を買おうと打診しましたがあなたは一向に首を縦には振りませんでした。
降り続ける雨の中ようやくあなたの家まで着いて、「濡れたままだとかわいそうだから」と初めて家にあげてくれました。
いや、あなたのせいでかわいそうになったんだけどと思いながらも口にせず、家に上がれることで高揚しているかというとそうでもなく、
やはり自称ストーカーの立場としては家の前から見上げるのが最高の瞬間なのであり、それは例えるなら花火を見上げるのとほとんど同じ心情であり、花火の中に入りたいとは思わないように部屋の中まで入るとなるととても危険だし恐れ多いことなのです。
オートロックから部屋までのストロークというのは案外短いもので、戸惑うまもなくすんなりとたどり着いてしまって思いを馳せていた距離はこんなにも短かったんだと儚さを感じました。
部屋の中はなんとも普通の変哲ない女の子の部屋で、ああ、この壁紙SNSの写真で見たなーとかそんなことを考えたり、僕がたまに気まぐれであげるガチャガチャのフィギュアなどが何個か並んでいるなーと眺めていたら男物のTシャツと短パンを渡されました。
誰のものかもわからない使い古された様子もそこまでしないものに言われるままに袖を通して、びしょびしょな服は洗濯機に放り込まれて、乾燥機の駆動音の中洗濯物が乾くまでカーペットの上ですやすや寝ました。
ストーカーにしてはあまりにも平穏な感情で過ごしてしまったのでむしろがっかりさせたかもしれません。
多分え、こいつ私のことそんなに好きじゃないんじゃね?と思われたと思います。そのせいでもう二度と敷居はまたげないかもしれません。
帰ってきて、ストーカーの美学に反する行いだったと深く反省しながら、あなたの家の柔軟剤の匂いを嗅いでいます。
ストーカーにあなたを思い出す道具を与えるなんてあなたはとても軽率だし、本当に悪い人だなと思いました。
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