コンフリクト(葛藤・対立)プロセスに関わる想い①
私が主として取り組むコトとしてのテーマは「コンフリクト(葛藤・対立)」という言葉に集約されますが、そこにある背景や意図、また例えば「変化」や「変容」など周辺にある関連領域にも触れておくことで、伝わる人も伝わる事もあるかと思い本記事を書こうと思います。(本記事は、noteの自己紹介ページの冒頭に書いた下記の補足文章的位置づけです)
かなり長文になると思うので、何回かの記事に分けて発信をしたいと思います。よろしければ是非お付き合いください。第1回は「誰しもが、大切な存在に幸せであって欲しいと願っている」について。
(1)根底にある「誰かの幸せを願う心」
直接的に「コンフリクト」から入るのではなく、少し遠い所から話を始めます。それは、人間観と言えるもの。つまり、私は人をどういう存在として捉えているのかというものです。結論から言えば、「人は大切な存在の幸せを願っている」ということです。
「あの人の今、そしてこれからの人生が幸せでありますように。」きっと誰しもが一度は強く願ったり、祈ったりした経験があるのではないでしょうか。その対象は、身近な誰かもしれませんし、死を迎えようとする人との関係性の中、他の生命、生まれ育った地域、自然など多様だと思います。
(2)願いはあらゆる関係性の起点として存在し得るもの
あまりに概念的で漠然としているため、普段は無意識になっている、その願いにつながれていない、自我の奥に隠れているといったこともあると思います。(だからこそコンフリクトに向き合う中で、本来の願いにつながる大切さを感じています。こちらの話はまた続編で)
でも、目を凝らせば、日常の至るところに大切な存在への想いを見出すことができます。きっとこの記事を読んでいる今、皆さんの目の前の世界、いまここに存在します。経済の語源が「経世済民」にあると聞いたことがありますが、その意味では経済活動も含めて、本来はあらゆる関係性の中に存在し得るもののように思います。
最近、自分の家系図を作成するということにも取り組んだのですが、大切な存在を想う心がその時代時代を生きた人の根底にあり、脈々と続いてきた。その流れがあるからこそ、自分という生命が今ここにあることも実感しました。
(3)やさしい世界が現れる瞬間にもっと触れたい
「大切な存在の幸せを願う」という起点、そして関係性が広がったとき、社会は、世界はもっとやさしい場所になると思っています。私は世界のそんな側面をもっと見てみたいと思っています。
また、何よりそうした純粋な願いが「現れる」もしくは「転じる」という瞬間に立ち会いたい、触れたいと思っています。そして、そのプロセスに小さいながらも貢献をしていきたいです。
*自分もここまできれいなことを書きながら、しっかりエゴや人間臭さもありますし、清廉潔白・完璧さとは程遠い人間であることは付しておきます…
(4)心に響いたストーリー
私は人生のある時期(特に人生の中で四季が巡るとしたら冬にあたるような、渦中にいる中では苛烈とも言える時期)、ある種の「痛み」に触れるストーリーに強く惹かれて、そうした映画や小説、書籍、動画を多く見ていました。例えば人の死、心身の病や障がいなど、生老病死に関わることが多かったように思います。言い換えれば「なんで…!」「どうして…!」という答えのない問い、意味が見いだせない暗闇の中にいる苦しさです。
ストーリーに触れているとき、自分自身の中で起こること。それは思考で考えるのではなく、心に響いて涙が溢れる、「ここに大切なことがある!」と身体にメッセージングされている感じがして、そこを辿っていく中で、本記事で書いたようなことを少しずつ言語化してきました。
具体的に見聞きして覚えているもの。ごく一部ですが、参考までに紹介させていただきます。
映画
書籍
寮美千子著『あふれでたのはやさしさだった』(西日本出版社)
皆藤章著『それでも生きていく意味を求めて』(致知出版社)
(5)次の記事への接続:コンフリクトをどう見ているか
上述した痛みのストーリーに触れ、影響を受けながら見出したことの一つが、自分の人生として「コンフリクト(葛藤・対立)」に入っていく、生きていくということでした。次の記事では「コンフリクトとは何か」や「コンフリクトの痛みや可能性という側面」について書きたいと思っています。
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