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電車、この「冷淡な空間」

電車に乗るのが嫌いだ。可能な限り、乗りたくない。

学部生時代のある日、電車に乗るために抗不安薬を飲まなくてはならなくなった。電車のドアが閉まってしばらくすると、息が苦しくなり、吐き気が襲ってくる。苦しい、苦しいと息苦しさを誤魔化すために、ガムを噛んだり、手の甲をつねったり、ひどい時には髪の毛を引っ張ってしまうことさえある。5、6年前から心療内科を受診し、その時もらった薬を(量をその時その時で調整しながら)今も飲んでいる。ただ、薬を飲んでも苦しくなる時はあるし、途中で電車を降りてしまうこともある。目的地に早く行きたいのに、体がいうことを聞いてくれないのだ。混んでる電車には今でも絶対に乗れない。特急電車のような、長時間ドアが閉まったままになる電車にも、乗れないことがある。そういった類の電車に乗ると、だんだん空気がなくなってしまうような気がしてしまい、より息苦しさが強くなる。同じ車両に乗っている人が皆、僕の分の空気まで吸ってしまうのではないか、というあらぬ妄想まで働いてしまう。とにかく人の多い電車や、長時間止まらないまま走り続ける電車には、薬なしでは絶対に乗り込むことはできない。

なぜこんなことになってしまったのか、よくわからない。まだ学部生だったある時、ふと電車という空間の閉鎖的な構造や空気感に耐え難い息苦しさと吐き気を覚えた。その時は同じ駅で乗っては苦しくて降り、また乗っては苦しくて降りる、を繰り返していたことを覚えている。その時は前日に、友達との飲み会があったので、その時に飲みすぎたことが原因かなあ、などと思いながら、その日は母親に車で迎えにきてもらった。こういう時、実家暮らしだと助かるなあと呑気に考えていた。

しかしその後、電車に乗るたびに息苦しさ・気持ち悪さを感じて、とうとう電車に乗れなくなった。車の免許も持っていないので、これでは出かけるどころか大学にも行けなくなってしまう。さすがにおかしいと感じネットで調べ、精神的なものではないかと思い心療内科を受診した。
結果、僕はパニック障害と診断された。

それから数年経った。僕は大学院生になり、下手くそな紀要論文などを締切直前まであくせく書いたりしている生活になった。それでも相変わらず電車の中は苦しく、吐き気を催しながら何とか耐えて大学や研究機関などに向かう日々が続いている。その苦しさは発症時と今とで大して変化していない。
電車でのこの苦しさを思う時、心の中でしばしば子どもの頃の記憶が呼び覚まされる。あの頃の自分には電車だろうが何だろうが、どんな場所でも苦しさなど感じることなく過ごせていた。なのに…… 子どもの頃は、大人になれば「強く」なれる、どんなことも苦しまずにやっていけるようになると思っていたのに、いざ大人になった自分をみると、電車に乗るたびに薬を一錠、手に出して飲んでいる、20代も後半になる冴えない人間の姿が映っているのだ。子どもの頃の記憶がやってくるたびに、なぜ今苦しいのだろう、電車に乗るという簡単なこともできなくなってしまったのかと、自身に対する失望にも似た感情を覚えてしまう。

でもある時ふと、反対に考えてみると答えが見えてくるかもしれないと考えた。つまり、子どものころは乗れたのに今は乗れない、という方向ではなく、今こんなに苦しい思いをしないと乗れない電車に、なぜ子どものころは容易く乗ることができたのだろう、という方向で考えてみるのだ。
子どものころのことを思い出すと、あの頃は知らないものばかりで溢れていた。けれど知らないものに対して、とんでもなく絶望的な恐怖を抱くということは少なかったような気がする。もちろん、初めてのことは怖いこともあったけれど、最後には大人が助けてくれた。少なくとも、幼少期の僕の周りの大人はそうだった。恵まれているだけなのかもしれない。でも少なくとも、僕は大人が助けてくれるという確信のもと、色々な体験をすることができた。

そしてそれは、自分に向けられた視線に対してもだった。今の自分は、周りからどのように思われているのか、変な動きをしているとか、なんだこいつはとか思われていないだろうか、といったように、見てくれを気にしすぎてしまうきらいがある。子どもの頃にはこんなことはなかった。というより、自分が周囲からどのように思われているかを気にするという発想が、子どもの頃の自分にはなかったように思う。そんなことより自分にとって大切なもの、星空や宇宙のこと、あるいは小説や童話の世界に夢中になって、そういったものを気にするという発想そのものが、自分の中になかったのだ。

そんな自分が、いつから今のように周囲を気にするようになったのか。正直なところ、よく覚えていないけれど、このことと電車に乗る時に苦しくなることとは、何かしら関係があるような気がする。
思うに、電車というのは僕らが暮らしている社会の縮図ではないだろうか。一つの車両に、子どもからお年寄りまでああらゆる人が詰め込まれている。隣の座席に座っている人が、全く知らない人であるなんてことは当たり前で、本当に周囲の人が、どのような人かを知るよしもなく車両を出ていく。時には、自分にとって不愉快この上ない奴が乗ってくることもある。でも自分が乗っている車両に、どんな人間が乗ってくるかを選ぶことなど、当然のことながらできない。今自分の隣に座っている人が何を考えているか、知るよしもない。当然ながら、お互いがお互いに関心を抱くことはない。それどころか、電車の中の人間というのはしばしば冷淡だ。優先席なんてあるけれど、実際に席を譲っている人などごく稀にしか見かけない。立っていようが座っていようが、スマホやら本やらを手にして、周りのことなど我関せずといった感じである。たまに顔を上げるときは(それも大抵は迷惑そうな顔で)、何かものが当たったり、人がぶつかってきたり、とにかく自分以外の存在から何かしらの刺激を受けるときくらいだ。そんな「冷淡な社会」が縮尺された空間として、電車は僕を圧迫する。同じ車両に乗る人々の冷淡さを見ると、自分がもし何らかの原因でここで苦しんだとしても、誰も助けてくれないのではないか……と、そんな思いに駆られる。
もちろん、同じ電車の、同じ車両に乗っているというだけの人から、自分へ関心を向けられているとしたら、僕も非常に困惑するというか、より端的に言えば気色悪く感じてしまうだろう。電車の中ではむしろ無関心の方が安心するのは当然のことだ。だが単なる無関心と冷淡さとは全く異なるもののはずだ。電車の中で、人々はあまりにも周囲に目を向けなくなっているように感じる。思いやりを捨ててしまって、自分のことしか見えてえいないように感じる。自分の前にいる人が倒れても、そもそもそのこと自体に気づかなかったり、下手をしたら倒れた方が迷惑かのような視線を向けられそうな空気が、車両の中には流れているように思うのだ。

ただ、僕はそういった「冷淡な」人々のことを攻撃したいわけではない。問題は、電車の中で周囲に対する少しの思いやりを持つゆとりを持つことができない、今の社会の閉塞感にあるように思う。僕が先ほど電車の中を、一種の「社会の縮図」と書いたのも、ここに大きな理由がある。みんな、他人に関心を向けるどころか、他人を困りごとや苦しみから助けようという余裕すら持てずにいるのではないだろうか。みんな自分のことで精一杯で、みんな自分のことにばかりかまけてしまう。スマホでSNSや動画ばかりを見ている人たちであふれる電車の中には、そんな余裕のない人々の空気感が凝縮されているように見える。そして、そんな余裕のなさを感じてしまうからこそ、僕は電車で苦しくなってしまうのかもしれない。

それでも僕は、今日も電車に乗るだろう。研究室に行ったり、アルバイトをしたり、大学での仕事に行くために。どんなに「冷淡な社会」でも、僕らがその社会の中で生きる以上、電車のような空間を避けることはできない。少なくとも僕は、進んで社会に参加する方をとりたい。そして進んで社会に参加するということはどんな社会の中でも生ききってやるということだ、と思うのだ。
たまに端の車両に乗ると、運転席を興味津々に眺める小さな子を見ることがある。そういう時、子供の頃の自分、人目を気にせず好きなものに夢中になる、あの頃の自分がよみがえった姿を見たような気がして、少し安心した心地になる。できればその子たちが大きくなる頃には、大人たちが余裕を持った心持ちを持てるようになることを祈りつつ、今日もガムを噛んで電車を耐え忍ぶ。

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