【1-2】戦国武将がハンコを復活させたお話
なぜ再びハンコは復活したの?
結論:花押を書くのが面倒だったから!?
前回のお話の中で、日本の認証史では「サイン(花押)」に置き換わっていた時期があったというお話をしました。
でも、一度衰退したはずの「ハンコ文化」が再度、復活することになりました。今回はこちらのお話です。
このハンコ復活の背景には、日本のハンコ史でいう④の時代における、
"2つの理由"が影響しています。これを見ていきましょう。
③と④の間の時代というのは、日本の歴史の中でも苛烈を極めた時代、そう”戦国時代”です。
この時代の最初はもちろん「花押」全盛期ですので、各有名武将たちも当然、自らの花押をもっていました。
どれも個性的でかっこいいですね。
こうした花押が正式な文書に使われる一方で、ハンコが再度使われるようになっていきました。
なぜなのか?
2つの理由があるのですが、その理由が分かりますか?
理由①:各武将の戦地に赴く機会が増加
要するに戦地において筆をとって、
「花押」を書くという行為自体が単純に手間だったようです。
一方、ハンコですと押すだけで簡単ですし、携帯品も「印」と「印肉」さえあれば、書道具(墨、筆、硯、水など)を携帯する必要がなかったということなんです。
という理由から、それまでの「判物(はんもつ)」に変わり「印判状」が使われるようになっていきったそうです。
※ちなみにこの「印判状」を最初に使用したのは今川義元の父にあたる今川氏親で、花押に変えて黒印を押したのが始まりとされています。
理由②:領内に出す文書の数が著しく増えた
戦国の世は城主が頻繁に交代するため、それに伴う「掟」「制札」「伝馬手形」などの通達に関する文書を頻繁に発する必要があった。これら全てに「花押」を書いていては、他の大事が成せない。
という理由で、ハンコが再度使用されるようになってきたんですね。
おそらくハンコの特性である「代行できる」という点も、戦地を飛び回る忙しい武将達にとっては使い勝手が良かったのかもしれませんね。
今でも出張の多い、経営者の方やサラリーマン管理職の方々もこの代行メリットについては日々感じられている方も多いのではないでしょうか?
ただ、この頃はあくまでも「花押」>「ハンコ」で、特に重要な文書については、基本的に「花押」が使われており、あくまでも簡便なものにだけハンコは使われていたようです。
要するに「花押」の方が面倒で手間だったので、より簡単で便利な「ハンコ」を使ったという事になります。
あれあれ?
この文脈、最近よく聞きませんか?
-----こぼれ話-----
「花押」>「ハンコ」の事情を物語るストーリーとしては、武田信玄のお話が面白いかと思いますのでご紹介します。
『元亀4年6月20日付の武田信玄の書状』
これは三方ヶ原で徳川軍と戦って討死にした大藤政信に宛てたものです。この中で、信玄は彼の功績を讃え、今後の協力を約束しています。
しかし、ここには「花押(直判)」ではなく、「ハンコ」が押印されていました。そしてその理由として、「病気がまだ本復していないため、花押の代わりに印判を押す」と記されていました。
つまり、本来は「花押」を押すところだが、「ハンコ」で勘弁してね。という内容になっている訳です。ここからも「花押」>「ハンコ」であったことが推察されます。
さらに面白いのは、実は信玄は元亀4年4月12日に死亡していたんです。要するにそもそも「花押」が書ける訳はなかったのです。しかし、信玄の死を悟られないようにするための戦術の1つとして、「ハンコ」を使ってカムフラージュしたとされています。
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【古い文化を今に伝え、新たな文化を刻みだす】 ハンコ文化のコアな部分は残しつつも、既存概念を取っ払い、時代合わせて変化する! 僕はそんな挑戦をしていこうと考えています。 同じような挑戦をしている方!! 一緒に楽しく頑張っていきましょう!!