運命の出会い
私は元々千葉県民。地元の雰囲気、家族、友人が大好きである。
では何故大好きな地元を離れ、今大阪でサッカーをしているのか。
そのきっかけ、それは、、、
運命の出会い
があったからである。
その出会いはまず、小学6年生の頃に遡る。
私は小学校時代、バディーSC千葉というサッカークラブに所属していた。
バディーは自分にサッカーとは何かを教えてくれたし、サッカーの楽しさを教えてくれた。
もともと野球家系にあった私は小学校から野球をやる予定だったが、たまたま通っていた家の近くの幼稚園にサッカー教室があり、体を動かすという意味で始めたサッカーにどハマりしてしまい、サッカーを辞めることが出来ず、それ以降もサッカーを続けることになった。
小学校時代は千葉県選抜に選ばれたり、千葉県、千葉市など様々な大会で優勝したり順風満帆のサッカー人生を送っていた。
小学校を卒業してもサッカーを続けたい。
そう思って、中学年代のジュニアユースのセレクションを受けることにした。
受けたクラブは3つ。
1つはジェフユナイテッド市原・千葉ジュニアユース。
千葉市民のサッカー少年なら誰もが憧れるあのジェフ千葉のジュニアユースである。
セレクションは1次~4次セレクションまであり、当時所属していたバディーの選手、千葉県選抜の選手などかなり多くの選手がセレクションに参加していた。
私は1次セレクションを受けると2次セレクションを免除、そして次の3次セレクションまで合格した。
しかし、最終である4次セレクションに合格することが出来ず、ジェフ千葉ジュニアユースに入ることが出来なかった。
2つ目のチームはFC習志野。
このチームからはセレクションを受け、内定をもらった。しかし、手応えはなく、正直入りたいとは思わなかった。
そして3つ目のチーム。
それが今回の運命の出会い。
そのチームこそ、SOLTILO FC(現SOLTILO CHIBA FC)である。
SOLTILOは私が小学5年生の頃、本田圭佑さんがプロデュースし、作られたチームで、私の代が2期生目となるチームだった。
家から近いという理由もあり、私はセレクションだけでなく、練習会にも参加した。
その練習会で私は、SOLTILOのジュニアユースの監督から直々に「うちに来てくれ。」と、お言葉を頂いた。
私は第1志望がジェフだったが、不合格だったため、SOLTILOFCに入団することを決めた。
決め手としては、クラブの施設、環境、スタッフ陣の充実、などなど沢山のものがあるが、1番は私を欲しがってくれた事。である。
第1志望のクラブには行けなかったものの、SOLTILOで私は大きく成長する。
中学1年の時から1つ上の学年の練習に参加させてもらったり、中学3年の時にはチームのキャプテンを任命された。
プレイヤーとしても髙橋大空という人間としても大きく成長させて頂いた。
サッカー面では千葉県史上最速となる千葉県一部リーグ昇格を果たし、自信がついたし、サッカー以外の部分ではキャプテンをやった事から責任感、リーダーシップなど様々なものを得た。
中学3年間で大きく成長した私は再び進路の問題に直面する。
私は自立して人としてもプレイヤーとしても1つ上のレベルでやっていきたいという思いがあり、寮生活に憧れを持っていた。
しかし、自分のサッカーのレベルを考え、それは不可能である。と自分でそう考え、実家から通える距離の高校に通い、サッカーをしようと考えていた。
東京や千葉の高校の練習会に参加するも内定は貰えず、唯一SOLTILOのユースから内定を貰っていたが、そのレベルなら勉強して普通の部活に入ってサッカーをすると決めていた。
そんな私に転機が訪れる。
それは中学3年の夏、SOLTILOの監督の出身校である星稜高校のある金沢へ遠征に行くことが決まった。
もちろん、星稜高校との練習試合もあり、チャンスはここしかないな。と思っていた。
遠征に行く朝、親に向かって「内定取ってくるわ。」なんて冗談交じりに言ったことを覚えている。
いざ、金沢に向かい、星稜高校との試合。遠征の初日であったと記憶している。
とにかく走り回って全力を出した。
その後も色々なチームと練習試合をし、何事もなく遠征を終えた。
その一週間後の事である。
監督に練習後呼び出され、「星稜高校の監督がお前を欲しがっている。」
私は何が何だかよく分からなかった。
帰宅後、嬉しくて逆に少し溜めてから親に伝えた。
帰宅してからずっとニコニコしていた、と何かあったんだろうなと勘づかれていたらしい。笑
私が星稜高校に行けたのは間違いなく監督のおかげである。
監督が星稜の出身で星稜との練習試合をしなかったら、声をかけてもらってなかったら、私は星稜なんて選択肢になかったし、考えることもなかっただろう。
こうして私は、憧れていた寮生活をする事となる。
高校に入学すると、新型コロナウイルス感染症が全国に蔓延。
最初の1年はコロナと腰痛分離症の影響でほぼサッカーをすることが出来なかった。
高校2年になると、私はようやくサッカーをすることが出来、B2であったカテゴリーがA2のカテゴリーまで上がることが出来た。
A2は石川県1部リーグを戦うチームであり、石川県のトップレベルのリーグである。
なかなか上手くいかず、思う通りのプレーは出来ていなかった。
6月、リーグ戦を戦う中でインターハイの予選が始まる。
私にもメンバー入りの可能性が僅かに残されていた。
インターハイの期間はA2もA1のメンバーと一緒に練習することが出来た。
メンバーに入る。その思いで必死に練習に臨んだ。
結果としては県予選メンバー落ち、全国サポートメンバー。
自分の思うような結果にはならなかった。
その後の選手権にもメンバーに入ることが出来ず、高2でトップに1度も入れていない状態だった。
さすがに現実はそう甘くない、神から試練を与えられているような気がした。
そして迎えた高3。私はやっとの思いでAに昇格し、星稜の顔として試合に出場することが出来た。
しかし、チームは戦力として例年と比べると低く、スタッフ陣からもお前たちは弱い。と言われ続けていた。
それもそのはず。私たちは新人戦を落としてしまっていた。
自分たちでも弱いと自覚していたし、日本一になる。というよりもまずは全国に出る。というレベルだった。
結果としては、インターハイ、選手権共に全国に出場することが出来た。しかし、共に初戦敗退という結果だった。
自分自身、初の全国の舞台であったが、力の差を肌で感じた。
そして待ち受ける進路問題。
星稜はインターハイ県予選を優勝していたため、北信越総体への出場が決まっていた。
運命の出会いはそこでもあった。
北信越総体準々決勝vs高岡第一戦。
何も知らずに私はいつも通りにプレーした。
すると試合後、大阪体育大学のコーチから、練習会だけでもいいからきてみないか。と言われた。
大阪体育大学は星稜のスタッフがほとんどOBで、星稜の色々な選手が大阪体育大学に行っていた。SOLTILOの監督もそのうちの一人である。
私は大学では関東の大学を希望していたため、最初はこの話に消極的だった。
しかし、他の大学からのアプローチがある訳でもない。
色々考え、監督などと沢山話もした。
そして私は、大阪体育大学への進学を決断した。
決め手としてはやはり、私を欲しがってくれた事。
中学のセレクションから大学までずっと声をかけ続けてもらっている。
自分の第1志望じゃなくても、自分を欲しがるところに行った方がいいと私は思う。
それは何かの「縁」である。
こんな経緯で私は今大阪にいる。
私がジェフのセレクションに受かっていたら、、?
SOLTILOではなくFC習志野に行っていたら、、?
私は今大阪にはいなかったしそもそも高校も星稜に入っていなかっただろう。
中学の進路選択でSOLTILOの監督との
運命の出会い
が無かったら私のサッカー人生はどうなっていただろう。
今後も、出会いを大切に。
そして恩師に恩返し出来るように、1日1日を大切にすごし、中学時代の監督のようにプロサッカー選手になるために努力し続ける。