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ブルータリズムからプルーラリズムへ:建築家ポール・ルドルフの多面性
メトロポリタン美術館で開催されている展覧会、『Materialized Space: The Architecture of Paul Rudolph』に行ってきた。
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1950-80年代を中心に活躍した建築家、ポール・ルドルフの回顧展である。ルドルフ個人に焦点を当てる展覧会は史上初、さらに同美術館が20世紀の建築家を取り上げるのは1972年のマルセル・ブロイヤーの回顧展以来、実に50年ぶりとのこと。メトロポリタン美術館は20世紀の名作建築が次々と取り壊されていく現状を危惧し、近現代建築を展覧会及び収集の対象として強化していく方針を固め、本企画はその第一歩であることがカタログ内で説明されている[1]。
ポール・ルドルフといえばコンクリート剥き出しの仕上げを前面に押し出す「ブルータリズム」を象徴する建築家の一人とされ、代表作には私も通っていたイェール大学建築芸術学部棟(1963)、ボストン政府サービスセンター(1962)などがある。
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建物ももちろん特徴的だが、それ以上にルドルフの代名詞といっても過言ではないのが線描による圧巻のドローイングの数々だろう。特にスキップフロアや細かな段差を用いた垂直方向の変化を好んだルドルフにとって、断面パースは設計の肝であると同時に内部空間の質を最もよく表すメディアのひとつであった。その正確さと細かさには度肝を抜かれる。本展覧会も、これらのドローイングをメインに据えた展示構成となっていた。
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線描による細かなテクスチャ表現は、ルドルフがイメージする荒々しいコンクリートの仕上げを他者と共有する道具のひとつでもあった。実際にイェール大学建築芸術学部棟の施工者は、ルドルフが描いたテクスチャを忠実に再現するべく型枠を開発したり、コンクリート表面をハンマーで砕いて骨材を露出させる作業を踏むなど、様々な工夫を凝らしたとのことだ。
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さて、「ブルータリズム」という特定のスタイルと、それを支える緻密な「ドローイング」という単一のイメージが先行するルドルフだが、実は作風もその興味も千変万化する波乱万丈な建築家人生を送っている。
この展覧会は、ルドルフのこれら多方面に及ぶ活動に目を向け、ブルータリズムというラベルを剥がし、建築家として再評価する大変意義深い企画だと個人的には感じた。20世紀の建築家やその作品の歴史化が進んでいく中で、単一のスタイルや個性に矮小化して作家を語るのではなく、その個人の多面性に着目した歴史検証は今後も重要なテーマになっていくだろう。今回は展示から見えてきた建築家ポール・ルドルフの多面性とその奥深さについて、展評も兼ねてまとめてみる。
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1.建築家ポール・ルドルフの生涯
前述の通り、ルドルフは生涯に渡って様々な種類やスケールのプロジェクトに携わってきた。展覧会ではこれらをおおよそ時系列に沿って、モダンハウス、都市開発、市民キャンパス、メガストラクチャ、実験的インテリア、アジアでのプロジェクトの6つに分類し網羅している。それぞれを私見も混ぜながら簡単に見ていく。
1940年代前半にハーバード大学でモダニズムの祖の一人、ウォルター・グロピウスに師事していたルドルフは、学生時代に近代建築の教義を骨の髄まで教え込まれる。途中で戦争による徴兵を経験し、ブルックリンの海軍工廠で造船技師として働いていたルドルフにとって、近代建築の教えは日々目にする軽量材による先進的な加工・製造技術と相まって、よりリアリティを持って実感できたのではないだろうか。実際に1940年代後半にフロリダで建築家として独立(初期は建築家Ralph Twitchellと共同主宰)すると、これらの経験は"サラソタ・モダン"と呼ばれる住宅を中心とした一連の作品群として結実する。通称”コクーンハウス”と呼ばれるHealy Guest House(1950)、Walker Guest House(1953)などが有名だ。
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これらの作品が評価されると、ルドルフは東海岸を中心とした都市開発や公共住宅に関わるようになり、1958年にはイェール大学建築学科長に就任し先述の新キャンパス設計を任される。より規模の大きいプロジェクトに携わるにあたり、ルドルフはサラソタ・モダンまでの軽快な表現ではなく、後期コルビュジエのコンクリート打ち放し”べトン・ブルート”を継承発展した粗くモニュメンタルな建物を志向するようになる。建築史家レイナー・バンハムが50年代に名付けることになる“ブルータリズム“の草分け的存在の一人へと、ここで華麗な転身を遂げるのだ。これには無色透明な近代建築に代わる新たなスタイルを模索するために、象徴性や幾何学、建物の物質性などに着目していたルイス・カーンやI.M.ペイとの同時代性も見て取れる。
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1950-60年代のルドルフは、実務では各界の権力者や政治家との関係を深めていくことで様々なプロジェクトを獲得し、教育では学科長として大学の教育方針やプログラムを刷新し、後進の指導に励むなどまさに八面六臂の活躍だった。特にルドルフがこの時に持ち込んだ”プルーラリズム”(一つの教えに偏った教条主義ではなく複数のスタイルや考え方が一つの学校に同居する教育の在り方)は、今でもイェール大学建築学科の教育の柱となっている。この時の教え子には後に世界的建築家となるノーマン・フォスターやリチャード・ロジャースらがいる。
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その一方で1960年代中盤になると、ベトナム反戦や学生運動による反エスタブリッシュメントの空気が蔓延し、権力者や政治家との関係も深かったルドルフの人気は徐々に下降していく。追い打ちをかけるように1963年に竣工した建築学科棟は、学生のオーバーキャパシティによる混沌としたスタジオ環境になり(当時は芸術学科と共同使用)、建築界内外からの批判にさらされたルドルフは1965年に学科長を退くことになる。
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1968年のイェールでのヴェンチューリとデニス・スコット・ブラウンによるセミナー、”Learning From Las Vegas”は、ルドルフ設計のアパートCrawford Manor(1962)をヒロイックな象徴性を志向するエスタブリッシュメント建築として徹底的に批判し、後にこれらをまとめた同名の書籍(1972年初版)がセンセーションを巻き起こしたことでルドルフの不人気は決定的なものになる。プルーラリズムを志向したルドルフが、まさにそのプルーラリズムの申し子によって攻撃される、何とも皮肉な結果である。
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教育の場から退いたルドルフは、かねてからの希望であったニューヨークに事務所を構え、心機一転新たなプロジェクトに取り組んでいく。
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しかしながら、既に下降気味であったルドルフの人気はさらに拍車をかけるように地に落ちていく。その理由が、60年代後半に発表した一連のメガストラクチャ構想だ。特にフォード財団の依頼でロバート・モーゼスの高速道路建設の代案として発表した、Lower Manhattan Expressway/City Corridor Project(1967)は、誇大妄想的なビジョンとディストピアを絵に写したような計画が物議をかもした。道路や住居、公共交通機関を統合した3キロにも及ぶ線状の巨大建築の計画は、今でこそ過去の夢あるプロジェクトのひとつとして再評価もされているが(特にドローイングは圧巻)、当時の人々からしたら非常に恐ろしいものだったはずだ。
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60年代後半から70年代にかけて大規模プロジェクトの依頼はほぼ無くなり、ルドルフは個人住宅の設計や自邸の改修、インテリアデザインを中心に活動するようになる。興味深いのが、これまでのサラソタ・モダンやブルータリズムとは再び一線を画すような実験的なプロジェクトが多い点だ。特に顕著なのが自邸の改修・増築である23 Beekman Placeだ。多様なレベル変化と中央の吹き抜けといった空間のモチーフに連続性は見られるものの、内装に関してはミニマルなモダンやブルータリズムとは程遠い、装飾的でどちらかというとポスト・モダンに近いものがある。
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建築・芸術批評家で『Queer Space(1997)』の著者でもあるAaron Betzkyは、ルドルフの作品が”官僚的なモダニズムから常に逸脱しつづけてきたのは、彼自身が(ゲイとして)クィア・カルチャーの影響を少なからず受けてきたからではないか”と推測する[2]。特に建築界では男性的でストレートな職業文化が常態であった当時、ゲイであることをオープンにしなかったルドルフにとって、プロフェッションと私生活という二面性は、建築の外(Exteriority)と内(Interiority)の問題としても重なるものがあったのではないだろうか。クィア理論と建築に関わる研究が盛んな今、ルドルフの空間性やデザインをセクシャリティという観点から再検討するのも重要なテーマのひとつのように思われる。
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しばらく建築の表舞台から遠ざかっていたルドルフは、80年代に入るとアジアの経済成長に好機を見出し、日本やシンガポール、香港やジャカルタで、主に高層ビルを中心としたプロジェクトに取り組むようになる。60年代に挫折したプレファブやモデュラーシステムといったアイデアを、アジア固有の都市密度や風土的なデザインと掛け合わせた独創的なプロジェクトをいくつか完成させるものの、カムバックに成功したと言えるのほどの評価は得られず、1997年に志半ばでその生涯を閉じることになる。
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展示では、このようにルドルフの生涯と多岐に渡る活動を、ドローイングや模型、過去の雑誌特集などから概観できるようになっている。これだけでも展覧会としては意義深いのだが、やはりルドルフ手書きの、生のドローイングを間近で見れるというのが、特に設計に携わる者にとってはこの展示の一番の醍醐味だと感じた。
2.空間と運動の創出、その同時的行為としてのドローイング
今回パソコンの画面越しではなく、現物のドローイング、しかもそれを複数枚に渡って同じギャラリーで比較することで気づいたことがある。それは、プロジェクトごとにルドルフの細かい筆致が多様に変化しているということだ。そして恐らくそれは極めて意図的な操作だということ。わかりやすいのが次の二つのドローイングだ。
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一見するとそんなに大きな違いは無いように見えるこの二つだが、近づいてみると線の性質や方向性、重ね合わせ方やそのルールが大きく異なっていることに気づく。
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前者では建物のテクスチャは部材の方向に関係なく常に水平と垂直の線で表現され、影のみが斜めに走る線として重ね合わされているのに対して、後者は部材の方向に沿って建物のテクスチャを表す線が描かれ、よりダイナミックに画面上で錯綜していることがわかる(特に階段の部分がわかりやすい)。
これは双方のプロジェクトが目指す空間とそのコンセプトとも大きな関係があるだろう。特に一枚目のFort Lincoln Housing(1968)は、プレファブのユニットをずらしながら積み上げる規則性が空間の主題となっており、別のドローイングで同じプロジェクトを見てみるとこのことがよくわかる。
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つまり、水平と垂直の線のみで描かれた建物の物質的なテクスチャは、パースの中で建物の規則性を表す空間的なテクスチャとしても機能しており、このプロジェクトのコンセプトそのものを表現しているのだ。そしてそれを斜めに走る影のテクスチャと対比することで、より強調する。
一方で後者のプロジェクトConcourse(1983)は、空中で交錯する階段、斜めに走る頭上の梁といった自由に振る舞う要素に沿って線が描かれ、さらにそれらの重なりから生まれる影は様々な方向を向きながらこれまた様々な方向の線によって描かれる。規則性はまるで見当たらず、どれが影でどれが建物のテクスチャなのかもよくわからない。極め付けに、手前の階段のカーペットは流れ落ちる滝のようにも見え、そこから広がる床の模様は段差のようにも見える。
つまり、このプロジェクトは前者のような物質を伴った規則的な空間ではなく、より現象的でエフェメラルな、絶え間ない運動の顕れとしての空間が目指されているのだ。それゆえに、建物は影と溶け合いながら、エッシャーの錯視絵のように、終わることのないフィクショナルな運動を想起させる。
このようにルドルフの“ドローイング“は、設計の単なるリプレゼンテーションなのではなく、線を描くことによってそのプロジェクトが持つ空間と運動を同時に構築していく設計と同義の行為であり、その痕跡なのだ。線の重なりや方向性を設計することで、空間と運動を二次元イメージの中で同時に立ち上げていく。名詞としてのドローイングではなく動詞としてドローイング。重要なのは、この過程でルドルフ自身も“運動“をしているということだろう。当時から建築家とは別でドローイングを描くことを専門とするドラフター(製図職人)を雇うことが当たり前だったにも関わらず、ルドルフは全てのドローイングを自分の手で描くことにこだわったという。
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つまり、建築を自身の身体の写しとして捉え、“運動”を媒介にしてそれを設計に落とし込み肉付けしていく。三次元の空間と身体の間で生まれる感覚、その応答としての運動体験という自身の身体に宿る抽象的なイメージを、まるで模型を手で組み立てていくようにドローイングで具体化し、構築していく。建築家Joseph Esherickが「トイレに行くだけでも空間体験をせずにいられない」[3]と評したような建物の豊かな空間と運動体験は、ルドルフの身体と建築を接続するこのドローイングにこそその鍵があるだろう。
ドローイングはルドルフにとって、建物のイメージを作り上げると同時に、そこでの空間と運動を考え創出していく、極めて同時的な行為として写っていたに違いない。
3.ブルータリズムからプルーラリズムへ:建築家ポール・ルドルフの多面性
これらドローイングの数々を通して見えてくるのは、建物を自身の身体の写し、あるいはその一部として表現する、意識の有無に関わらないルドルフの根源的な欲求だ。収集した膨大な個人コレクションを建物の一部として取り込むことも多かったというのはその証左のようにも思える。
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そしてこれらの観察を繋げていくと、前章で見たプロジェクトの多様さとそのスタイルの変遷は、まさしくルドルフ自身の身体の写しとしての彼の体験や経験、その多面性の顕れであるということが見えてくる。複数の面を持つという意味で、つまりプルーラルであるということ。
ブルータリズムという単一のスタイルと紐付けられ、エスタブリッシュメントアーキテクトとしてのイメージの先行するルドルフが、その反面プルーラリズムを教育の指針としていたのは、ルドルフ自身が多面でプルーラルな側面を内に抱えていたからではないだろうか。そして様々な固定観念の蔓延る建築界にーそれがポストモダンの隆興として自身のキャリアを脅かすことになろうともー複数の思想や存在が共存できる場を作る旗印として、プルーラリズムを掲げたのではないだろうか。
ブルータリズムからプルーラリズムへ。
建築を取り巻く状況が時事刻々と変化し、プルーラルな価値観がひっきりなしに対立し合う現代だからこそ、ブルータリズムの建築家としてではなくプルーラリズムの建築家としてポール・ルドルフを再検証することは、極めてアクチュアルでクリティカルな問題提起のように思える。その意味でも、彼が残した建物をその思想を受け継ぐ新たな身体として後世に遺していくことはとても重要であり、METがその意志を表明したことを心強く感じるのであった。
[1] Abraham Thomas, "Materialized Space The Architecture of Paul Rudolph", Yale University Press, 2024
[2] https://www.theguardian.com/artanddesign/2024/oct/06/paul-rudolph-the-artful-architect-who-inspired-noman-foster-richard-rogers
[3] Abraham Thomas, "Materialized Space The Architecture of Paul Rudolph", Yale University Press, 2024
Fig.1. https://www.dezeen.com/2019/12/03/paul-rudolph-walker-guest-house-florida-auction/
Fig.2. https://www.archdaily.com/560026/spotlight-paul-rudolph
Fig.3. https://www.paulrudolph.institute/196203-crawford-manor
Fig.4. https://www.amazon.com/Learning-Las-Vegas-Forgotten-Architectural/dp/026272006X
Fig.5.https://www.paulrudolph.institute/196402-rudolph-architectural-office
Fig.7.https://nymag.com/homedesign/design-hunting/2014/winter/paul-rudolph-23-beekman-place/