ICCアニュアル2022「生命的なものたち」


修論のため「メディアアート原論」を再読しているが、メディアアートのメインストリームの作品についてはICC(Inter Communication Center)やメディア芸術祭(さらに言えばアルスエレクトロニカ)を押さえておけばかなりの部分を体験できるのではないかと考えている。そのICCの展示は大きく年(今年から半年?)に一度更新されるため、現在や未来を示しているのではと考え、現在開催中のICCアニュアル2022「生命的なものたち」の各作品について自分なりに考えてみた。

リサーチ・コンプレックス NTT R&D @ICC《触覚でつなぐウェルビーイング》
作品の一つに別々の2台の装置に向かい合ってコミュニケーションを取るというものがある。座ると正面には同じく座った相手が映るのだが、特徴として手元の机のような部分が双方の振動を伝え合う事にある。これによって向かい合って同じ机の上のものを操作している感覚の伝達を意図しているのである。以前、アルスエレクトロニカで筑波大の学生さんだと思うのが、リモートで伸縮するリングのような作品を展示していた。例えば遠隔地で入院している家族の手を握るといったコミュニケーションを想定していたとのこと。技術としてはまだ完成度は低いが、インターネットがエーテルとして媒介として伝達する情報としては視覚と聴覚に次に触覚が来ることを感じさせる。

ALTERNATIVE MACHINE《The View from Nowhere》[2022]
ICCにある無音響室に入り、HMD(Head Mound Display)をつけてVRを体験する作品。ノイジーなアブストラクトの部屋から、地の底に落ちるような光景を経て、後半は上下に果てしなくモノトーンの海が広がる杉本博司《海景》を思わせる空間を浮遊しているような体験をすることになる。個人的にはアートというよりはVRというメディウムの可能性を模索しているといった印象だが、やはり生身では決してできない体験という感覚は面白い。無音響室という特殊な環境はあるにせよ、この体験の主要な源泉はOculusという家庭でも手軽に使えるハードに依存していることを考えると、今後のVRの進展は必然だろう。

nor《syncrowd》[2022]
巨大なメトロノームのような機械が5台、振り子を揺らしながら音を奏でる作品。同期によって振動が揃っていく過程があるのだが、この同期現象については理研の一般公開で脳研究で神経回路のメカニズムでも重要な役割を果たしていると聞いたことがあり興味深い。室内に音が満ちるインスタレーションとしての体験に加え、現代社会はインターネットという不可視の媒体で繋がることで同期によってエコーチャンバーなどを作りだしているのではないかと思いを巡らせた。

エレナ・ノックス《The Masters》 [2021]
スマートホームでの萌え系の女性型AIとの生活が入り口になっているが、コンピュータやコーヒーメーカーなど様々な「機械」とのコミュニケーションを体験させる作品。IoTによって身の周りの無生物ともあたかもコミュニケーションを取れるようになったのは日本では古来から馴染みのあるアニミズムとも捉えることも可能であるが、さらに一歩進むと「人間」と「機械」の違いはあるのか?ということを考えさせられる。今回のタイトルが「生命的なものたち」とあるように、小さな機械が家族や生命をシミュレートする(そしてNFTも絡めた)菅野創+加藤明洋+綿貫岳海《かぞくっち》 [2022]、無駄であっても試行を繰り返すエージェント(コード)と諦めてスマホに向かう人を対比させた慶應義塾大学徳井直生研究室の作品も、これまで自明のものと思われていた「生命」と「機械」の境界への問いかけとみなすことができるだろう。

セマーン・ペトラ《オープニングズ !!!》 [2022]
アニメーション、CG、実写が組み合わされた映像作品。作者なのか、登場人物なのか、ナレーターなのかがこの「セカイ」について語る。VRやMXによって人間が生み出せるようになった新たなリアリティはどのようなものかを考えさせてくれる。この内容を言説としてまとまったものを読んでみたいと思いつつ、英語の語りと風景に浸るのも心地よい。

伊敷勇琉《The Magic Mountain》
VRで山水画の世界とクラブを行き来する映像作品。実際の室内にもクラブと同じような照明効果が施され、疑似的にVRを体験するという構造になっている。全体的に抑圧感のあるディストピア的な雰囲気で、VRという手段が当然になっても、それで何をするのか?本当に人間は自由になれるのか?を問いかけられているように感じた。

全般的にVRなどの仮想現実(新たな現実)などが発展し、アーサー・C・クラークが「十分に発達した科学技術は、魔法と見分けがつかない。」と述べたように、インターネットを始めとするテクノロジーが不可視のエーテルとして作用する未来を入り口にあることを考えさせられる展示であった。修論と関連づけるとiARTについてメディアアート原論にあった「プレ・ポストインターネット」「ポストインターネット」「ポストインターネット以降」の3つの時代区分で整理しようと考えているが、それぞれが巷間で言われるDigitazation/Digitalization/DXと対応しているのではないかと考えさせられた。(この3つの詳細は省くがDX=Digital Transformationではデジタルによってこれまで不可能だった新たな価値が生み出されることであり、距離を超えたコミュニケーションや新たに生み出される仮想現実が該当すると考えている)こうした世界の不可避の針路がある中で、PCやスマホというメディウムにこだわることの意味を自分なりに考えてみたい。


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