ルヴァンカップ決勝前日、僕は母と喧嘩した。
2023年11月4日、J1のアビスパ福岡はルヴァンカップ決勝で浦和レッズに勝利し、クラブ史上初タイトルを獲得した。
J1在籍経験のあるクラブで屈指の弱さを誇るアビスパ福岡。そんなチームが国内3大タイトルの決勝に進んだんだから、サポーターの気持ちも、緊張と興奮が入り混じっていた。
僕と母も同じだった。タイトルにした事件を除いて。
簡単に我が家のことを話す。
僕は一人っ子。小学生〜高校生までの8年間、福岡で過ごした。九州特有の文化になじめない中、市の招待チケットで見に行ったのがアビスパ福岡だった。特にサッカーを習ったことはない。サッカーとの接点はJリーグ観戦が初めてで、アビスパ福岡が初めて見たプロサッカーだったのである。98年のJ1参入決定戦、「神を見た夜」を現地で観戦し、どっぷりアビスパサポーターになった。
我が家は転勤族だった。父は単身赴任が多く、アビスパ福岡の観戦も基本的には母と2人が多かった。思春期の多感な時期を部活とアビスパに捧げ、今思えば反抗期もあったが、博多の森には必ず母と通った。
2001年のJ2降格時(僕は中1)、担任教師から、期末テストの点数が著しく悪かった理由を3者面談で詰められた時、「アビスパのせいです」と話してくれたのも母だった。それくらい僕の生きがいだったのである。高校は自宅近くのマンモス男子校(今は共学)に通い、年間360日間部活の中でも、アビスパ福岡の応援だけは欠かさなかった。
しかし、大学は東京に戻ることにした。
将来を考えてのことだ。
以降、たまに帰省したタイミングと試合が被れば博多の森にいった。それ以外、我が家はお互いスカパーで観戦した。
就職も東京を選んだ。僕は千葉県出身で、アビスパと両親を除いて僕が福岡に帰る理由はない。福岡への縁もゆかりもアビスパしかないのだ。実家に帰る回数も減り、連絡も昔のようにはとらなくなった。
社会に出ると、サッカーの見方も、アビスパの見方も変わる。テクノロジーのおかげで素人も戦術を知り、ピッチ外のことも知る。経営についても気になるようになった。そして迎えた2013年の経営危機。今だからいう。僕は少し諦めてしまった。これはもう希望が持てないかもしれないと。
そこから川森社長(現会長)を迎え、井原アビスパになり、昇格。降格。イタリア人を招いて最凋落。そして2020年、長谷部アビスパの始動。
30歳を超えた僕は、典型的な情報と知識が先行した頭でっかちサッカーファンになり、アビスパへの気持ちは「どうか現状維持で、ちょっとでも強くなれば多くは望まない」というものだった。常に、消滅しないでくれ、降格しないでくれ。と思っていた。
長谷部監督が就任して以降、アビスパ福岡にはイイことしか起こっていない。両親に試合の話をすることも増えた。両親はたまに博多の森を訪れるものの、父はダゾーンをスマホで見て、毎月早々にギガ超過を繰り返し、母は「試合は怖くて見れない、あたしが見てない方が勝てるから」といって、ダイジェストで観戦していた。僕はサッカーオタクになり、昔より深くサッカーを見るようになった。
時の流れに従って、アビスパ福岡との接し方は変わっていた。
迎えたルヴァンカップ決勝戦。
母だけが国立に来ることになった。
父は仕事第一の人間、母だけしか来ないのは想定の範囲内。僕の家は無駄に広く、母一人なら余裕で住まわせることができるので、久しぶりに寝食をともにした。前日の入場待機列には、20年ぶりくらいに母と並んだ。
そして事件は起こる。
無事待機列を確保して帰宅した母は興奮が収まらないようだった。楽しそうで、嬉しそうで。一方僕は嬉しい反面、「このチーム、この戦い方でよくここまできたなぁ」と決勝の現実味がなく、テンションが上がらない。「負けても大丈夫、少しずつ強くなればね」とわざと冷静になる。この温度差が就寝前に亀裂を生む。
微妙な空気のずれと、理屈っぽく話す僕に対して、「嬉しい気持ちを出して何が悪い」「あんたはサッカーを知ったかもしれんけど応援しとるのはこっちも同じやったよ」「やっとここまできたんだ」と口にする母。
「僕は全試合みたんだ」「それもあって冷静に迎えているんだ、少しずつ強くなればいい」とムッとする僕。そのまま冷戦状態で就寝し、決勝の朝を迎える。
意外にも朝は普段通りだった。きっと母も気を使ったのだろうか。
身支度を終え、国立競技場に向かう。前日の振る舞いを反省し、母をもてなすことを第一に考えた。グッズもプレゼントし、座席も確保、国立競技場をゆっくり歩いて回り、メインゲートで写真をとったり、しっかりと「初国立」らしく過ごした。嬉しそうな母をみると、これも親孝行だと思えた。
後は試合が始まるのを待つのみ。
ノブリュウの選手紹介が終わり、
「アビスパオーレ―アビスパオーレー」の声が響いた時、
なぜか涙腺が爆発した。
数々のサッカー知識、観戦で培った経験が、僕に落ち着きを与えていたとしたら、「やっとここまできたんだ」という気持ちがそれらを余裕で上回ってしまった。理屈抜きに勝たせたいという気持ちになった。
それは2001年、期末テスト前にJ2降格を決めたガンバ大阪戦で抱いた鬼気迫るものに近いようで、それとは違う明るい情熱だった。
隣の母が僕の顔を見ずに、「よかったね、ほんと」と声をかけてくれた。
その言葉には、わずかながら「やけん言ったやろ笑?」が隠れていたような気がした。子供の気持ちを軽々と見透かす、親特有のものだ。
試合については、今更語る必要もない。
僕らのアビスパ福岡は、ルヴァンカップを制した。
涙が止まらなかった。嗚咽にも近い涙を、親子で流した。
25年だ。25年も同じものを追いかけてきた。
息子が母を抱きしめる機会があと何回あるだろうか。
と思い勇気を出してはハグをした。
細い。肩は骨ばって、鶏がらのようだ。子供の頃は太っていた母は、20年のうちに細く、壊れそうになっていた。この体のどこに紺色の情熱があるのか。懐かしくも、切ない気持ちになる。
結論を話す。今回は母のメンタルが正解だった。
サッカー観戦に正解はない。ただ強く勝利を願うものにサッカーの神様はほほ笑む。置きに行くメンタルだった前日の自分は、猛省すべきだった。
母は勝負事に熱くなるタイプだ。関東アウェイに行く息子に対して「4ぬ気で勝たせろ」と平気でメールをしてくるような人だった。「勝ってほしい」ではない、「勝たせろ」という言葉に彼女のサポーター像を感じる。
それは試合を頻繁に見なくなった今も、変わらないものだったのだろう。
子が大人になる。親も老いる。
アビスパ福岡だけは変わらず存在した。
それぞれのシーンにアビスパ福岡は確かに存在していた。
それぞれに、それぞれのアビスパ福岡がある。
そんな言葉がある。その通りだと思う。
付け加えるなら、姿によらずサポーターは一生サポーターなのである。
それを身をもって知った。
それは国内初タイトルと同じだけの価値があるものだった。
家族や親子をつなぎとめるもの。
僕の家では、アビスパ福岡がそれを担っている。
AVISPA IS OUR LIFE.
この言葉をまとめとして、ルヴァンカップ優勝を祝いたい。
ありがとう、アビスパ福岡。
母がとてもうれしそうだよ。あと父も。