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"つくる"に伴うこと

空間

卒業制作で使うロケーション選びの途中、「ぐるぐるそだつ ながや」という文化住宅のオーナーに出会った。そこでは、いろいろな理由で生きづらくしてる人たち、子供たちと一緒に書道教室をやったり、あるテーマについて語らい合ったり、お菓子作りをしたり、ワークショップでつなぐコミュニティがあった。
その文化住宅エリアの造形を見ても、「つながり」というコンテクストは感じ取れたし、エリアの中央にある共有スペースは、カフェやワークショップスペースとして機能していて、コミュニティに属する人と人との結び目として空間が見守っていたように感じ取れた。

特に映画制作の過程での理想とする「コンセプトと空間の共存」がそこにはあった。
藝術とはもとより多角的な”リアル”を追求していて、それは視覚的か感情的か、聴覚的なのか触覚的なのか、あるいは無意識なものなのか分からないが、”リアル”の中の痛みを含む感覚としての共通言語だと解釈している。
中国の知人から聞いた話だが、中国では作られる映画がどれも政府にとって都合の良いものだといい(一方の解釈に過ぎないと思うが)、Instagramやtiktokで国内の色々な事件や事故などのニュースが流れて、そのニュースこそが中国の真の映画(リアル)だと言う。

藝術には、決して理性の効かない、コントロールできない”感覚”があって、それが未発掘の場合「前衛」とされ、既成概念なら「古典」とされる。
であれば感覚が活かされるのは何であるか?

「空間」

それも物理的な空間に限らず、心にも匂いにも音にも感触にも空間があって、それが余白だから感覚の躍動を認識できる。
何かにコントロールされて、余白だった空間に方向指示的に情報が敷き詰められれば、その圧迫感と道の窮屈さに身動き取れない状態になる。感覚における主体の死滅。

演技における”リアル”とは、「いかに演技に見えないか」。
それは突き詰めれば「いかに演技をしないか」。
ドキュメンタリーがリアルと同義的で、その点フィクションが全く敵わないのもそのはず。
であれば我々映画制作陣が役者に与えるべきは「演技指導」ではなく「空間」。
「つながる」ための場所だと空間を一目見て感じたように、人の中にある共通言語としての痛みや不安や喜びや怒り、悲喜交々を必然的に感受できる空間・余白を与え、役者は「演技」ではなく「体験」をする。
それが、国や時間を越えて人へ伝わるのだと思う。

痛みと、革命

藝術作品を”つくる”とは、同時に自分と向き合うことと思う。
この手のアートワークに携わると、必ず注視してしまうのが「作家性」やら「オリジナリティ」という、曖昧模糊な線引きの概念である。
一切として人の影響が立ち入らない制作は、おそらく幼少期に済ませてきた。いや、幼少期ですら親だったり環境の影響が伴うだろう。
それをヒトは個性と呼び、個性=他の影響が形作る自分の輪郭ならば、「個性」とは聞こえの良い盗品である。
であれば、いかにして自分だけの作品が作れるかという問いは無理難題となってくる。

自分が作りたいものってなんだ?
自分の輪郭を認識するために他者を見る。
自分の秀でたものってなんだ?
作家性や単一性という免罪符に縋って完成した、実に自分勝手な作品が一体他者に何を伝えるのか?
そもそも自分の意志ってなんだ?

僕はこの無理難題とのイタチごっこを繰り返す世界中の哲学の奴隷と、それらの苦悶と心無い世界の板挟みにされるセンチメンタルには拍手を送る。
その痛みのロードムービーこそヒトとしての誇りであり、美しさであり、どこかの誰にでも伝わり得る共通言語である。

その先にある答えがどんなものだったとしても、そこには一皮剥けた自分が居て、古い自分の抜け殻の上に立っているはず。

「三島由紀夫vs東大全共闘~50年目の真実~」 
国家主義側として描かれる三島と、反国家主義の全共闘の討論会をメインに描いたドキュメンタリー映画で、芥正彦という前衛表現をメインの活動とする青年が、「革命を起こすのに解放地の持続性は意に介さない」と言う。
これは三島と全く逆の意見だが、生死を繰り返すこの世界で、次の活き活きとした「新生命」の誕生は芸術にこそあるとした前衛活動家の芥からすれば、本来右から左へ流れっぱなしの歴史の中に、逆方向の生きた証を打ち立てること自体が次の思想を生み出し、一つの芸術作品であると考えるのは当然。
僕はこれを引用するわけではないが、芸術・藝術は常に革命を起こす役割を持っていると考える。
国に対して全共闘は解放地を獲得し、(三島のいう一手に過ぎない)革命を起こした。
であれば、国に比べて極めて規模の小さい「自分」という最小単位においての革命は、感覚の追求と違和感や疑念を今一度逆方向に訴えることであって、「つくる」に伴ってくるものだ。

「脱皮しない蛇は死ぬ」フリードリヒ・W・ニーチェ
古くなったモノは、捨てなきゃいけない。
というより、未来を形作る革命前の感覚として、思いだす程度にしなきゃいけない。
自己の革命のアウトプットが他者に伝わり、次の藝術が紡がれて、他者と自己の歴史が交錯して、自己の拡張とコミュニティの形成、「つながり」、未来を形作る。


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