その女、やすよ
やすよ。その名前が彼女を表すのになぜかとてもしっくりくる。とあるワイン会で出会った彼女は、会の主催である酒屋の店舗に出入りする食品メーカーの営業担当である。まだ30手前で若さを残しつつも、仕事に勤しむ日々に多少疲れたような表情がふとした瞬間に漂う。それが絶妙に色っぽいのだ。
「ほらほら、早く開けないと次のワインいくよー」50も過ぎたようないい歳をしたオジさんが、すでに酩酊した調子で私のグラスをカラにするよう催促する。「えー、まだ飲んでますから」まだワインはグラス半分もある。しかも今日はすでに2杯も飲み干している。このオジさんの注文通りに飲んでいたのでは美味しいお酒も味わえないし、何よりワインに失礼である。「ほらほら、早くー」信じられないことに非常識なオジさんは、まだワインが残ったグラスへ別の種類のワインを注ごうとしてくる。私はそのしぐさを遮るかのようにグラスを手に取ったものの、口元へ運ぶ気はサラサラない。正直小さなワイングラスとはいえ、あまりアルコールに強くない身としては、時間をかけてゆっくり楽しみたい。ところがこのワイン会の参加者ときたら、本当にお酒やワインが好きで味わう人ばかりではないため、そこらの安居酒屋の飲み会のような盛り上がり方しか知らない人間もいるのだ。
「はい、貸して」手持ち無沙汰にグラスを持っていた私の手から奪うかのように、彼女は、やすよは私のワイングラスを取り上げ、ぐいっと一気に飲み干した。 「次の、お願いします」 唖然とする私をしり目に、オジさんに次のワインを注ぐように促す。その頃にはもうオジさんのお酒に対する無知な態度など気にもならず、私の気持ちはぐっとやすよへ向けられた。「え、大丈夫ですか?そんな一気に飲んで」心底彼女が心配で聞いたが、平然とやすよは答えた。「水をたくさん飲めば大丈夫!」私の心はもう彼女に向いていた。今日、この場の誰よりも男らしく、輝いている人。
その後やすよの恋愛話になったのだが、こんな男らしい彼女でも彼氏相手にはしおらしいのか、彼氏との将来を考え始めた矢先に別れを切り出されたという、なんとも切ないアラサー特有の悩みをぽつりぽつりと漏らした。「別れちまえ」これまた空気の読めない自慢が大好きなオジさんが無責任な言葉を吐き出す。「お前ならもっといい男いくらでもいる。そんな男やめちまえ」性質の悪い酔っ払いがよく言うセリフだ。お前に何がわかるんだ、と思いながらのどまで出かかった言葉をワインと一緒にくいっと飲み込んだ。
会も終盤。いい年した大人たちが大声でわめき、無礼講万歳と騒ぎ出す始末。いい加減飽きてきた私はこの場を一刻も早く立ち去らねばと思い、ひとまずの挨拶を済ませ扉の外へと向かった。あいにく霧雨の降る日であった。傘をさしてもささなくて構わないが、しっとり濡れるくらいには雨の冷たさを感じる。入口で幹事に挨拶を済ませ駅への帰路をとぼとぼと歩き始めると、後ろから私の名を呼ぶ声が聞こえた。振りかえるとやすよがこちらへ向かって傘もささずに走ってくるではないか。思わずこちらも追われる形に小走りになってしまう。「駅までお見送りします!」あっという間に追いついてきて、私と並走しながら元気にそういう彼女だが、さすがに駅までは遠いため丁重に断った。
今でもたまにふと小雨の日が来るとやすよのことを思い出す。
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