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【小説】恋路

「今度通話しようよ!」
掌に載せた画面には、SNSのダイレクトメッセージが表示されている。
彼女は吹けば飛ぶほどの軽薄な文字を横目にため息をついた。
「だる。」
呟きながらスマホの上に細い指を滑らせる。
先ほどまでメッセージが表示されていた画面には
「ブロック中です」
の文字が無機質に浮かんでいる。
今この瞬間、顔も知らないメッセージの相手と彼女の関係は切られた。
ほんの一秒にも満たない時間。
それまで数日間かけて行ってきた連絡のやりとり。
積み上げてきた”会話”の数々さえ記憶の隅にも残らない。
すべてが彼女の中では存在しなかったことになったのだ。瓦礫の一片すら。
「通話しよう、画像送って、直接会おう。」
―バカみたいだ。
―全部が滑稽に見える。
彼女がネットの大海原へと船を漕ぎだしたのは約二年前。
きっかけはほんの些細な興味から。
買ったばかりのスマホを手に、何となく見始めたSNS。
指を下から上へとスライドさせると次々と他人の生活が目に入る。
流れていく情報の羅列の中に一瞬何かが映った。
それは人々の悪意に満ちた水面に浮かんで見えた。
周りの醜悪な言葉が触れることを一切許さない残酷なまでの美しい絵。
思わず息をのんだ。
胸の奥でうるさいほどに感情の動く音が聞こえた。
「これだ…」
彼女は元々絵を描くことが好きだった。
他者との関わりは普段からなく、暇さえあれば絵を描いていた。
自分だけの世界。自分が生み出した世界。
その世界が果てない地平線まで広がるような感覚がした。

それから二年。
彼女は良くも悪くもインターネットの住人としてすっかり溶け込んでいた。
絵を描いて投稿をし始めると彼女の絵が好きだという人が日に日に増えていったのだ。
そうして投稿を楽しみにする人が増えていく中、絵だけではなく彼女自身に興味を抱く人も増えた。
そのこと自体は別に悪くはない。
むしろ今まで味わったことのない高揚感を与えてくれる。
しかし、しかしだ。
時としてそれは刃となって襲い掛かってくる。
人は目に見えないものを見ようとする。
勝手な想像と期待を押し付けてくる。
そして現実を知ったとき、勝手に落胆するのだ。
なんて身勝手な生き物なんだろうか。
だが、だからといって投稿をやめる気にはならなかった。
そこは自分のアトリエであり存在価値そのものだったから。
手の上に乗せたアトリエだけが彼女を自由にしてくれたから。
そんな諦観に似た気持ちに囚われ始めたとき、彼女はふと気になった。
自分をこの場所へと導いてくれた一枚の絵。
あの絵を描いた人は今どうしているのだろうか。
知った最初の頃は投稿を追っていたが、半年くらい経った頃に急に何も投稿されなくなった。
当初は気になって仕方がなかったが、それも自分の活動が忙しくなると次第に忘れていたようだ。
どんな人なのだったのだろう。
純粋に自分の作品と向き合う、誠実な人だったに違いない。
少なくとも、不躾に通話をしようなんて女性に声をかけるタイプではないはずだ。
彼女の頭の中で、線画が生まれ鮮やかな色彩が載せられていく。
この時彼女自身はまったく気づいていなかった。
自分もまた他者と同じように幻想という刃を相手の喉元へと突き立てていることに。

ーコンコン
不意に部屋のドアがノックされた。
「失礼しますねー。」
そう声をかけながら室内に入ってきたのは40代後半くらいの女性だった。
「ちゃんとご飯食べました?…あ、またスマホばっかり!あんまりよくないですよー?」
女性は、まるで自分の母親と会話するような口ぶりで語りかけてくる。
「そういえば、以前入居してた佐藤さん。また戻ってきたみたいですよ。」
そんな言葉を残しつつ、食器類を片付けて女性はすぐに部屋を出て行った。
閉まった扉を見つめた後、彼女は自分の手元へと目を向ける。
骨ばって、深いシワが無数に刻まれた手。
心はこんなにも変わっていないというのに、体の方はそうはいかない。
「この歳でネットの人へ憧れてるなんてそれこそバカみたい。」
今日は何もする気がおきず、そのままベッドへと横になった。

ーコンコン
介護職員の女性は別の部屋へと入っていく。
「佐藤さん、お加減どうですか?」
声をかけられた男性の利用者が絵を描く手を止めて顔をあげる。
「あー、いやあおかげさまでこうしてまた絵を描くことができるようになりました。」
その部屋の壁には、2年前にとある老婆が憧れ恋焦がれた一枚の絵が飾られていた。

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