橋本治・作家への道

 小説家になるような人は、たいていが子供の頃から本が大好きで本ばかり読んでいるうちに自分でもなにか書き出すようになる、というのがほとんどであろう。橋本治の場合はまったく違う。なにしろ高校生のころは全部で17冊くらいしか読んだことがなかったと書いているくらいである。かれはもともと映画マニアで、絵描き志望であった。それがなにゆえにあれほどの厖大な著作を残す作家となっていったのか。そこにはなんとも奇妙としか言いようのない経緯があったのである。
 
 かれが高校生のときの話である。オードリーヘップバーン主演の有名なミュージカル映画・マイフェアレディが日本で公開されたときのこと、ピンクを基調とした華麗なポスターが宣伝に使われていた。いまもパンフレットの表紙となっている有名なイラストレーションである。橋本はこのポスターに強く惹かれた。どうしてもそれが欲しかった。しかしそれを手に入れる術はない。どうしたか。なんとか入手したちいさなチラシをもとに、自分で描き始めたのである。絵が好きではあったが、別に油絵描きになりたいわけでもないし、自らの行く末が曖昧であった彼にとって、これは一つの天啓であった。イラストレーターになる。

 橋本は、美術大学への進学を希望していた。しかし、将来それで生計を立てていけるのか、という父親の言葉に自信をもって答えることができず、一年間の浪人生活を経て東京大学へ進学する。もともと実家は商売を営んでおり、それでメシが食えるかどうかという問いかけは、彼にとって大きな説得力をもつものであったのだ。ただ、浪人時代にも映画雑誌にスターの似顔絵を投稿して小遣い稼ぎはしていた。ところが駒場祭のときに描いた「とめてくれるなおっかさん」という有名な文句を描いたポスターが、当時の大学紛争の時代とマッチしたためもあって、社会的反響を呼んでしまう。まったくひょんなことから彼は大学生でありながらプロフェッショナルのイラストレーターになってしまったのである。

 そののち彼は、大学に通いつつ、依頼された仕事はなんでもこなす職人的な絵描きとして十年近く活動していく。大人気テレビドラマ「時間ですよ」のタイトルバックや、大ヒット歌謡曲「昭和枯れすすき」のレコードジャケットなど、厖大な仕事をこなしていった。しかしながら彼のなかでは、しだいにある違和感が大きくなっていったのだという。それは、これらははたして本当に自分が描きたい絵なのか、本当に自分がやりたい仕事なのか、という思いなのだった。

 そんなある時。彼の頭の中に一つのメロディのようなものが湧き上がってきた。いったいこれはなんだろうか。よくわからないままにそれを書き留めていた彼のなかに、次から次へと別のメロディが浮かんでくる。しかもそれぞれに歌詞までついている。それらを眺めていた彼はあることに気付く。これをまとめると一つのミュージカル劇が出来上がると。橋本の東大での専攻は歌舞伎、卒業論文は四世鶴屋南北についてである。芝居・戯曲についてはもともと専門家であった。何か月かかけて彼は文筆家としての処女作を完成させたのである。

 知り合いの編集者に作品を見てもらった。感想は「日本ではミュージカルは流行らない」というものだった。劇団四季がポピュラリティを獲得する以前の話である。しかし彼は、なんとしても自分の作品を世に出したかった。作家志望ではなかった自分のなかからまったく自然に湧き上がってきた、自分自身でもあるような作品である。そこで彼はどうしたか。自分が有名な作家になればこれが出版できると考えたのである。じつに橋本的というか逆立ちした発想は作家デビュー以前からすでにしてそこにあった。ミュージカルがダメなら、というわけで次に書いたのは「義経伝説」という普通の芝居である。ところが今度は戯曲はよくわからない、という感想。それでも彼はくじけることはしない。普通の小説、当時中間小説と呼ばれた一般的な小説を書こうと考えた。しかも小説の賞を決める選考委員はみんなおじさんである。おじさんはみんな女子高生が好きである。ならば女子高生を主人公とした小説を書けば評価されるかもしれない。女性主人公による一人称小説を書くにあたって参考にしたのは谷崎潤一郎の「卍」であるという。ともあれかれにとっていまだに代表作のひとつである「桃尻娘」はこうして日の目を見たのである。

 こうして橋本治は小説家になってしまった。そののち40年ほど彼は小説家・評論家として厖大な著作をあらわし、出版界に押しも押されもせぬ存在となった。橋本治という作家の特異性をまるで裏付けてでもいるかのような、不思議な「作家への道」なのであった。

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