"機械に勝てない将棋"から見る、人間や文化のアイデンティティ
先月、前人未到となる藤井聡太棋士の八冠が現実のものとなりました。
藤井聡太棋士はデビューの頃から話題性に富み、それまでスター棋士であった羽生善治棋士に勝るとも劣らぬカリスマ性を発揮しています。
一般層にも名前が轟いており、将棋のルールは知らなくても藤井聡太棋士の名前は知っている、という方も少なくないと思います。
同じように、囲碁の世界では仲邑菫女流棋聖が韓国棋院へ移籍することとなり話題となっています。
将棋・囲碁、どちらも若い棋士たちが才能の華を開花させていますが、現在ではどちらもコンピュータに人間が勝てない競技となりました。
過去、コンピュータの将棋ソフトと人間の棋士が対局する"電王戦"がありましたが、「人間とコンピュータが同じルールで真剣勝負をするという歴史的役割は終わった」として2017年に終了しています。
悪い言い方をすれば、既に6年前には人間がコンピュータと競うことが不毛であることが自明であったと言えます。
20年ほど前までは将棋や囲碁が人間に勝つまでにはまだ時間がかかる(将棋はアマ3段程度の実力)とされていました。
今となっては適切にチューニングされたコンピュータに対して人間が勝てるボードゲームは非常に少なくなっています。
いくら人間同士で必死に切磋琢磨しても、スマホ一台で人間が負けてしまう時代です。
果たして将棋や囲碁、チェスなどが文化として築き上げてきたものや、そもそもスマホに勝てないのに人間がボードゲームを強くなることにどの様な価値があるのでしょうか?
これは突き詰めると「そもそも野球もゴルフも生産性がないのに人間がコツコツ探求していることは意味がないじゃないか」という話になりそうですが、一旦"人間がコンピュータに勝てない状況でどこに文化的価値を見出すのか?"といった点を考えます。
逆のシチュエーションとして、人間がコンピュータに勝る競技であれば、あまり文化的価値や競技のアイディンティティに疑問を持たないと思います。
むしろ20年前までであればそれが普通だったため、従来の価値観と今の状況には乖離が生じています。
以前書いた記事でも触れましたが、ボードゲームどころか美術・音楽にも価値観や状況の変化が生じています。
とはいえ価値観や状況が変わりつつある中でも、人間がコンピュータの強さを礼讃しているかというと、そうではありません。
2017年に藤井聡太棋士がデビューした際、将棋ブームが起こりました。
奇しくも"電王戦"が終了する年、人間がコンピュータに勝てなくなった年ですが、世間が将棋に興味を持ったのはコンピュータの強さではなく藤井聡太棋士の活躍がきっかけでした。
裏付ける様に、スマホアプリの"将棋ウォーズ"は藤井聡太棋士の活躍に呼応するようにユーザー数が伸びており、現在は650万人が登録しています。
将棋の文化的価値、ないしコンピュータと人間の違いはここにあるのではないかと思います。
実際に、藤井聡太棋士デビュー当時は昼ごはんに何を注文するのかが注目の的になっており、将棋の腕前以上に"個人そのもの"への関心が高くなっていました。
あくまで個人的な意見ですが、競技や美術・音楽についての文化的価値の側面には、競技や技術の営みを通して人間性(タレント性)に興味を持つことも含めた興味関心の価値があるのかと思います。
社会現象に依って文化的な価値を判断する、ということではないですが、少なくともコンピュータが強くても起きなかったブームが人間によって起こされたというのは、世間の関心があり価値を見出したからだと思います。
人間とコンピュータの勝ち負けで言えば、80年以上前にアラン・チューリングによってエニグマ暗号解読機が開発された時点で人間はコンピュータに負けています。
しかしそれは人間の役割が失われたことを指しているのではなく、新しく便利な道具を生み出したという側面を示しているに過ぎません。
洗濯機が生まれてもクリーニング屋は廃業していませんし、エクセルが生まれても税理士法人は無くなっていません。
人間はコンピュータに勝てませんが、コンピュータ将棋は人間が将棋を学ぶ道具として存分に活用されています。
おそらく、美術や音楽においても、そういったツールとしてコンピュータ(AI)を活用していく世の中になると思います。
乱暴な結論としては、ひとまず"人間が手を動かすことには、それだけで価値がある"と考えていいのではないかなと思います。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?