【短編小説】タンザナイトの夜
あらすじ
定年退職を迎え、有り余るほどの時間を手に入れた私はその日、アフリカはタンザニアの地に足をつけた。夕食を終え、ラウンジでくつろいでいた私の前に現れたのは、同じ日本人の若い娘で……。
晴れて定年退職を迎えた私は今、日本から遠く離れたアフリカ・タンザニアの地に赴いていた。仕事漬けの日々から開放され、「体の自由が利くうちに」と思いたった上での行動だった。
なぜタンザニアかというと、それは私にも分からない。雄大な世界にただ身を投じてみたかっただけかもしれないし、あるいは都会の喧騒から離れたかっただけなのかもしれない。いずれにしろ私は今、全てのしがらみから解放され、自然豊かなタンザニアという国にいる――。
※
およそ20時間にも及ぶ空の旅を経て、そこから市街のホテルまで舗装されてない道路をバスとタクシーに乱暴に揺られて数時間。正直、この時点でだいぶ疲れており、観光などする余裕もなく、私は案内された部屋に入るとそのままベッドで寝入ってしまった。
「……っあ~……っ」
と、欠伸をしながら目を覚ましたのが夕方で、窓の外はすっかり夜のとばりの群青色と、夕日のオレンジ色になっていた。
「あ」――と、ホテルのパンフレットに目をやると、すでに夕食の時間ではないか。
私はベッドから立ちあがり、食堂へと向かった。
夕食を済ませた後、私はラウンジの椅子に座り、ぼんやりと外を眺めていた。先ほど見た燃えるようなオレンジ色は鳴りを潜め、空は青紫へと色を変えていた。
何度目かのまばたきをしたその時、
「あの~……」
首から重そうなカメラを提(さ)げた若い娘が、不安げな面持ちで私に声をかけてきた。
「日本人……の、方? ですか?」
「え? ええ、ハイ」
驚きつつも体勢を直し頷くと、娘はパッと明るくなり
「ホント! うわ、嬉しいです! こんなところで同じ日本人に会えるなんて! 母国語ってやっぱり安心しますね!」
と、打って変わって饒舌に話しだした。
目を丸めるこちらをよそに、娘ははしゃぎながら隣の椅子に座りこんだ。
「ご旅行ですか? それともお仕事の関係でこちらに? あ、もしかして移住してるとか?」
「い、いや、定年を迎えて自由の身になったのでね。体が言うことを利くうちに、海外旅行でもと思って……」
「へ~」
大きな瞳をキラキラと輝かせる娘に、私は少したじろいだ。
「ホ、ホラ、『今が一番若い』って言いますでしょう。これ以上歳食って、足腰立たなくなる前に、世界を見ておきたくてね……」
「フ~ン。いや~素晴らしい~。素晴らしいです!」
と、なぜか拍手を送られた。
「長い間、お仕事お疲れ様でした。いっぱい働いた分、たくさん楽しんでくださいね!」
「え……? あ、ああ、ありがとう」
私は居心地悪そうに椅子に座り直した。
自分の子供、あるいは孫ほども歳の差がありそうな娘に、私はだいぶ困惑していた。礼儀云々をうるさく言うつもりもないが、今時の若者は皆こうなのだろうか?
「そちらは? まさか、女性一人で旅行ってわけではないでしょう。家族旅行ですか?」
「ふふ。それが、まさかの一人旅なんです」
そう言って胸を張る娘の言葉に、私はつい「一人旅!?」と聞き返した。
「驚いたな。君みたいな若い子が一人で旅を? しかも、……言っちゃなんだが、女の子一人で……?」
「あはは、女の子って歳じゃないですけど、ハイ」
あっけらかんと笑う。
最近の若い子は……とは言いたくないが
「呆れたな。……大きな声では言えないが、治安がいい場所とは言えないよ? ここは」
スリは当然のようにいるし、すぐ隣には野生動物だっているのだ。油断していたら命の危険がある場所なのだ、ここは。
「女性の一人旅としてこの場所を選ぶのは、はっきり言ってどうかしている」
「……ん~」
娘は少し首を傾け
「『タンザナイト』って知ってますか?」
と、尋ねてきた。
「? タンザ……ナイト?」
「はい」
そう言って、娘は首元のペンダントをつまんでみせた。
青とも紫とも言えない、絶妙な色合いを持つ美しい宝石がそこにあった。
「十二月の誕生石なんですけど――あ、十二月生まれなんですよ、私」
「は?」
話が全く見えてこない。
渋そうな顔をするこちらを気にも留めず、娘は続ける。
「『タンザニアの夜』って意味なんですって。私、自分の目で確かめたくて。タンザニアの夜を。どんなのかな〜って」
「……」
口をポカンと開け唖然とする私をよそに、娘は窓の外に目をやった。
「綺麗な星空ですね」
「え?」
促されるように視線を移す。
なるほど確かに綺麗だ。先ほどまで何の感慨も無く眺めていた景色だが、改めて見てみるとなかなかどうして美しい。建物の中にいるから、広い夜空とは決して言えないが……。
「……外で見てみませんか?」
「え?」
娘は驚いた様子でこちらに振り返った。
が、しかし誰より驚いていたのは私自身だった。
「あ、いや、すみません! 若い娘さんに言う言葉ではなかった! 決して下心があって言ったわけではないんですよ? ほ、本当に」
本当に自然と口からこぼれ落ちた言葉なのだ。
そこに意味など全くなく、ただ流れるようにして声として発せられただけなのだ。
「……お、おやすみなさい……」
なんともいたたまれなくなり、流れる汗をぬぐいつつお辞儀をすると、私は急いでその場を離れようとした。
「そんな事ありませんよ!」
「!」
思いがけず娘が引き止めてきた。
「ホント言うと私、外で見たいな〜って思ってたんです。でも一人じゃ心細いから、誰かに着いてきてもらいたくて……。日本人ぽい人がいたから、頼めないかなって思って。だからあなたに声をかけたんです」
「……」
一瞬ポカンとしたが、私はすぐに微笑んだ。
「……僕で良ければ」
頬が熱くなっているのが自分でも分かった。
※
ホテルの外に出ると、ラウンジで見た空の何十倍も広い星空が広がっていた。
「おお……」
「わぁ……」
共にあげた感嘆の声に、図らずも一体感を感じる。
「あっちの方、行ってみましょう!」
娘は嬉しそうに茂みのある方を指さした。遠くの方で野生動物の声が聞こえてきているというのに。
「いや、ホテルから離れるのは――」
「ホテルの光が余計なんですよ」
そう言って、娘は首から提げていたカメラを掲げた。
「先、行ってますから」
「え? い、いや、待ちなさい」
スタスタとよどみなく先を行く娘の後を、私は慌てて着いていった。
ホテルの光が届くか届かない位の場所まで着くと、娘はようやく空を見上げた。
「うわぁ……」
私も倣(なら)って空を見上げる。
鬱蒼と茂る黒い木々の額縁。その向こうに広がるダークカラーの青と紫。二つの色はお互いを引き寄せあうようにして混じり合い、複雑で美しいグラデーションを作りあげている。そして色とりどりの小さな星々は、ぼんやりと輝く天の川を彩り、チカチカと歌うようにして光り輝いていた。
「……はぁ……」
妙な圧迫感すら感じる夜空に、思わずため息が出る。
「……なんだか押しつぶされそう……」
娘はペンダントを握りしめ、ポツリと呟いた。
「……ああ」
畏怖や畏敬、抗い様のない本能の部分に訴えかけてくる感覚――。太古の昔から脈々と受け継がれてきた人間の人間たる一部分。
「……」
私は、何故かこれまでの思い出を頭の中で振り返っていた。物心ついた頃から今日までの記憶を、思い出せる限り全て。
「……人間なんて、ホントに……ちっぽけな生き物なんだな」
陳腐な言葉ではあるが、だがそれ以外に言葉が浮かばない。
「もっと早くに来れば良かったな……。良いものを見させてもらった……」
私は自然と合掌していた。
※
ホテルに戻ると、娘はこちらに振り返って頭を下げた。
「ホントに、ありがとうございました。おかげさまで良い写真も撮れました」
あれから結局、私は娘の満足するまで写真撮影に付き合った。途中、お互いの身の上話なんかもしたが、ほとんど当たり障りのないものでつまらないものだった。
「今日の事、忘れられない思い出になりました」
と、娘が屈託なく笑う。
「いや、こちらこそお礼を言うよ。どうもありがとう。君に出会わなければ、あんなに美しい夜空を見る事はできなかった。私にとっても、良い思い出ができたよ」
私がそう言うと、娘は照れたように笑った。
「私、明日の飛行機で帰りますんで」
「そうか」
「短い間でしたが、お世話になりました。会えて本当に良かったです」
「私もだよ」
娘はサッと手を差し出し
「じゃあ、一期一会って事で!」
握手を求めてきた。
私はその手をギュッと握り返した。
「元気で。気を付けてな」
「はい」
「親御さんに心配かけるんじゃないぞ」
「余計なお世話です。――じゃあ、またいつか!」
名も知らぬ娘は再会を願う言葉を残し、スタスタと歩き去っていった。
だがきっと二度と会う事は無いだろう。だからお互い名前を明かさなかった。
しかし忘れない。『タンザニアの夜』を冠する宝石がある限り。
私は余韻に浸りながら自分の部屋へと向かった。
あとがき
調べてみたら、タンザナイトの意味は『タンザニアの夜』ではなく『タンザニアの石』というのが正しいらしい。間違ってたらごめんなさいm(__)m
なんでも、見目麗しいブルーゾイサイト(後のタンザナイト)を見て、金になると思ったティファ○ー社さんがプロモーション用に名付けたのが始まりとのこと。でも調べれば調べるほど『石』だったり『夜』だったり情報が交錯していてわけわかめ。ここに『騎士(knight)』も入れて三つ巴にしてあげたい今日この頃。かっこいいジャン『タンザニアの騎士』
冗談はさておき、タンザナイトの『ナイト』はアンモナイトの『ナイト』と同じ意味だとどこかで読んだ。でも、情緒もひねりもない『タンザニアの石』よりは幽玄で叙情的な印象を受ける『タンザニアの夜』の方が個人的には好きです。