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2つのロマンス(ドビュッシー)
いらっしゃいませ。
ようこそ、CLASSIC BAR VERSTECKへ。
さて、"本日のオススメ"は、ドビュッシー作曲の『2つのロマンス』です。(数字は27-390。名曲解説全集捕3巻P387)
クロード・ドビュッシー先生。1862年-1918年(55歳)の、フランスの作曲家ですね。
なんと!
こんなに名前が登場しているのに、今回正式には初登場のようです。
先生、お待たせいたしました。
ちなみに、ディーリアス先生と同じ年の生まれで、2年後にはR.シュトラウス先生がお生まれになる、そんな時期です。
両親はあまり音楽には興味はなかったようですが、おばやら知り合いなどにはピアノを教わる機会があったようです。
10歳でパリ音楽院に入学ピアノ、オルガン(フランク先生に短期間)、作曲(ギロー先生、マスネ先生?)、を学びます。
基本的にはピアニストとしてやっていきたいと思っていたようです。
18歳ころには、チャイコフスキー先生でお馴染みのフォン・メック夫人にピアノ奏者として雇われ、イタリアやロシアなどを旅行し、徐々にドビュッシー先生も各地に紹介され、交流をしたり、各地の音楽も吸収していきました。
22歳ころには、『カンタータ「放蕩息子」』で、ローマ大賞を受賞し、パリ音楽院を卒業。
ローマからの帰国後に成果として書いた『交響組曲「春」』は、デッサンよりも色彩を重視する印象派の絵画になぞらえ、「曖昧な印象主義」と批判されたのが、25歳ころのお話。
が、もちろんのちに、この印象主義音楽は、世に認められるようになります。この時はまだ時代がついてきていなかった、という事ですね。
ワーグナー先生の音楽に熱中してバイロイトに出かけたり、パリ万博でジャワの音楽やベトナムの演劇に触れ、ムソルグスキー先生の『ボリス・ゴドゥノフ』など、幅広い音楽を吸収し、独自の音楽様式を作り上げました。
一方で、印象派の詩人マラルメ先生のサロンに足を運び、画家とも交流。
これらを経て、1894年、マラルメ先生の詩の夢幻的な印象を音楽にした『牧神の午後への前奏曲』によって、先生の国際的な飛躍を決定づけることになりました。
ちょうどこの間の時期に書かれたのが、本日の曲『2つのロマンス』。
プルジェ先生の詩に9曲を作っていますが、そのうちの2曲。
印象としては、
なるほど、歌詞はわかりませんが、なんか、ただ甘いだけではないようです。
甘酸っぱいというよりはほろ苦い感じも。
時間がたったのでしょうか、何か懐かしんでいる感じなのでしょうかね。
本日の音源は、nao navelさんのチャンネルを視聴しながら書き進めてきました。ありがとうございます。
本日もご来店いただきまして誠にありがとうございました。
またのお越しをお待ちしております。