電話1本でできること
まだ、私が実家に住んでいた時のこと。
私は2階の自室にいて、1階からは断続的に声が聞こえるので父が長電話していることはわかっていた。父が電話することなんてあまりないから気にはなってはいたし、それもとても長かったので何かあったのだろう、とは思っていた。
1時間以上経って、父が階段をのぼる音が聞こえて、自身のぐちゃぐちゃのパソコン部屋に入ったのを音で確認すると、私は1階の食卓に行った。
そこに居たげんなりした様子の母が、ヤクザから電話があったと言った。
少々込み入った事情があるため、私にはいとこが何人いるのかはっきりとした人数は知らないのだが、オフィシャルではひとりしかいないことになっている。
そのオフィシャル的に唯一無二のいとこが闇金に手を出したのだった。
高い利息の付いた返済が滞り、ヤクザ関係者だという貸主から父への催促の電話だった。
借り入れる際に保証人としていとこは自身の父親と、義理の母親、そして私の父の名前、住所、電話番号、勤め先を書いたらしい。
電話の主はピー会を名乗った。よくある苗字入りの地図を見たのかうちの近所の人たちの名前を知っており、代わりに返済しないならおまえの家の隣のピーさんところにもピーさんにも嫌がらせをしてやる。ピーさんのところは商売をやっているから、嫌がらせして営業できないようにしてやる、という電話だったようだ。
闇金よりも何より、ヤクザにうちの存在を知られているというのが怖かった。
母から一通りの話を聞くと、2階のぐちゃぐちゃのパソコン部屋から父親がおりて来た。調べてみたら、ピー会は本当に存在するとのこと。
明日から通勤以外には外出しないこと、犬の散歩にも行かないようにと言われた。
翌日、父はホームセンターで材料をたくさん買ってきて、窓に柵を張り巡らせた。大きな窓から光の入る明るい食卓だったのに、まるでスラム街の家みたいな雰囲気になってしまった。
私は自転車で30分かけてバイトに行くだけのつまらない日々を送っていたので、生活には何の影響もなかった。
父は頻繁に外出しなくてもいいように、物理的に持てる限りの食材を買ってきた。ただその全てが生鮮食品で保存できるものはなかったので、消費に迫られることになった。
それと同時に、ヤクザが電話で名を上げた近所の家を周り事情を説明して、ご迷惑お掛けすることになるかもしれませんと言ってまわった。
怯えながら生活するも、私の身には何も起こらなかったし、家にこわい人たたちが訪ねてくることもなかった。あれはあくまで脅しであって意外にこんなものか、と思っていたのだが、まわりは違った。
先ず、いとこの両親の家に突然「この度はご愁傷様です」と葬儀屋が来た。だれも死んでいないし連絡していないと説明して帰ってもらった。
またある日の深夜は、いとこの義理の母の家に複数台の消防車が来た。火事も起きていないし通報もしていないと説明して帰ってもらった。
別の日にはいとこの両親の家に、寿司のデリバリー店から寿司桶の上50皿の注文の確認電話があった。ふたり暮らしの家がそんなものを注文するはずがない。不審に思った店が電話で確認してくれたことで未然に防げたが、同じ頃、いとこの義理の母の職場には宅配ピザが50枚届けられてしまった。
父の勤める会社には、毎日怒鳴り声を上げるヤクザを名乗る男から電話があった。電話を受ける事務員が泣き出してしまったと聞いた。毎日必ず電話があり、それも長時間にわたりしつこいので職場に迷惑が掛かり、父は事の顛末を会社の朝礼で話し詫びた。
数ヶ月後に定年退職が迫っている父に頭を下げさせるな、と闇金に手を出しただけでなく、勝手に父の名前や勤め先を書いたいとこに怒りが湧いた。
次はうちに消防車がサイレンを鳴らしながら何台もやってくるのでは。
毎日遠くで緊急車両のサイレンが聞こえる度に心臓がバクバクした。
普段は特に近くを走っている大きなサイレンしか気に留めていなかったが、遠くにかすかに聞こえるサイレンにまで意識すると、サイレンというものはけっこう絶え間なくずっとどこかで鳴っているものなのだ、とこの時知った。
結局、弁護士に動いてもらって事は収束した。
こんなことがあったんだよ、と闇金に関する一連のことを友人に話すと、「全部電話1本でできるいやがらせだね」と言われて、本当にそうだと初めて気が付いた。
多くの人に迷惑がかかっているし、食材までも無駄になっているこの嫌がらせ。一見レパートリーは多いがすべて椅子に座ったまま電話1本でできるのだ。
繁華街の電柱に貼られている「審査なし即日貸付」なんてビラを見ると、今日もまだ電話1本でできる嫌がらせは日本中で起こっているんだろうなと思う。