ぼくは論文が苦手だった/阿部幸大『まったく新しい アカデミック・ライティングの教科書』(光文社、2024年)
学生時代、ずっと論文に苦手意識を感じていた。そもそも語学力が低く、だから論文を闇雲に読んでも頭に入ってこなかった。さらに、書くことも、エッセイの延長のような感覚で、強度の強い随筆くらいにしか思っていなかった。今から思えば、方法論や目的が全くわかっていなかった。
だから、研究の仕事を目指すのをやめてしまったのも無理はない。研究者の仕事は、教育や事務など複数あるだろうが、基本的には論文を書くことだと思う。私は、こう言ってはなんだが、当時、人の論文を読んでもあまり面白いと思えなかったし、正直今もそうだ。論文よりももっと一般の人に開かれた文章を書いてほしい。私はいつも仕事相手にこうお願いする。
どうやっても論文は、作品そのものよりも面白くないように思えたし、どれも結論が先にあったり、ただ、作者の思想に小説や詩の読み方を合わせているだけに思えたり、とにかく作品の注釈にしか思えなかった。それはそれでおもしろいのかもしれないが、当時の私が文学や文学研究に望んでいた刺激や面白さとは異なるものだった。また、先行研究が扱っていない穴を探すようなことも、全体を俯瞰するという作業が致命的に苦手で、うまくできなかった。これらは、さまざまな能力的な瑕疵や不向きはあったと思うが、要はアカデミックな世界の意味や意義を、理解していなかったということだと思う。
最近読んだ阿部幸大の『まったく新しい アカデミック・ライティングの教科書』に、以下のような言及があった。
この部分は、論文のつまらなさの核心をついていると思う。著者は本書の後半部分で、書くことによって自分という他者と出会うことの大切さを説いている。論文を日々練磨していくことで、人は自分がなぜそのアーギュメントを持つに至ったのか、なぜこの問いが必要なのか、内省する必要に迫られるのだ。論文の射程は、単なる論文の評価よりももっと遠く、実存的な場所にある。
本書の書名をSNSか何かで初めてみたとき、正直あまり興味が持てなかった。私にとってアカデミック・ライティングは、かつては不完全な形で学んでいたが、今はもう遠い過去のものになりつつあるものだったからだ。だから、買うことも読むこともないだろうと思っていたけれど、三人の友人との会話の中で本書が出てきた。その三人は私が最も信頼する友人たちだったから、この本を買って読むことに決めた。
それでもまだ、『まったく新しい アカデミック・ライティングの教科書』なるものにどれだけの需要があるのか疑問はあったが、紀伊國屋でも相当な数売れていて、この本はかなり注目もされている。ここのところ、新書でも、かなり難易度と専門性の高い書籍が売れることがある。例えば、今井むつみの言語学の本や、松沢裕作の『歴史学の考え方』などもそれにあたる。みな、なぜこんなに売れるのだろうと不思議に思っているが、本書もそういう本の一冊なのかもしれない。
横書きで、パラグラフの頭の字下げはなし、パラグラフのたびに一行空白が入る独特なスタイルで、本書は書かれている。文章は、余計な修飾や衒学趣味みたいなものがなく、極めてフラットで、情報を過不足なく提供するタイプ。そして重要なところは太字になっている。
アカデミック・ライティングの定義、構造、一本の論文を書くのに何本資料を読めばいいか、一本の論文にパラグラフはいくつあるのか、イントロとは何か? 結論って意味あるの? そういった論文の詳細かつ具体的な情報とスキルが、この本にはみっちり入っている。そういうことを、大学では以外に教えてくれない。私の経験では、大学での論文指導はこのようなシステマチックなメソッドがあるわけではなく、基本的に書いてきたものに対して指導するという方法をとっていた。もちろんそうやって論文を書けるようになる人が大勢いたわけだが、私はうまくいかなかった。
本書は、例えば一つのアーギュメントを作るために、思いついたアイディアなどを研磨し、他動詞を自動詞に変えたりし、アーギュメントとして「強い」そして「明確な」ものにする過程を徹底的に言語化し、それを見えるようにしていく。そのような指導は私は受けたことがない。だからこそ、本書には価値があると感じる。
文章を鍛え「強い」ものにしていくというのは、ある意味でマッチョな作業だと思う。筋肉を解体し、鍛え、それを繰り返すように、著者は論文を様々な角度から分解し、研究し、そしてより強いものへと変容させていく。それはまるで筋トレだ。そうしてある意味でストイックに文章に向き合う訓練は、なかなかサラリーマンなどになってしまうと、する機会がない。学生時代にこのように、まるで修行のように型を叩き込むのがいいと思う。
アカデミックな論文は、すでにある議論に何か価値を加えることを目的とする。だからすでにある議論=先行研究をまとめて文脈と作り、その文脈の前提になるものを見抜き、それを批判的に論じ、そこに新しい、自分なりの価値を加えるということになる。だから、論文のアーギュメントは「他人の意見を引用しない限り自分のアーギュメントにアカデミックな価値があるということを示すことが構造的に不可能である」。こういう記述なども、どこか哲学的でさえある。論文は目的はアカデミックな対話空間に貢献することであり、いかに独自性のある議論だろうと、これまでの文脈や他者の意見が、必ず必要とされる。
「書けないやつは読めてもいない」(59)という言葉も、カジュアルではあるが、とてもしっくりくる。言葉のセンスがいいので、頭に入ってきやすい文章だ。書くという行為は、書いた側から読んでいく私がいることで、書くと読むは一瞬で見分けがつかなくなる。そのような有機的な一繋がりの行為の中に、書くと読むという行為はある。だからこのパラグラフ冒頭の言葉になる。
また、論文には必ず読者がいる。それは多くの場合査読者と呼ばれる、論文を評価する人のことだ。査読者に、「面白い」とか「賢い」と思われることではなくて、「お、こいつは書けるな」と思わせなければならない。
このように、著者は、現実的に必要となる評価や知識や作業などを、別の論文などを見本に抽出していく。その手つきが、単なる思想を述べているものとは違う。とにかく実用的で具体的なのだ。その、論文に対する脱神秘化していく手つきが、本書後半で言及される千葉雅也を想起させる。実用的であること、実践的であることを恐れず、それを実行する。実験的に型にはめてみたりもする。
本書は徹底的に論文について考え、書けるためにはどうすればいいかを考え抜いた方法論が書かれているが、決してそれだけではない。論文を書くというのは何をすることなのか。それが研究者になるためにどのようにつながっていくのか。「文学研究あるいは人文学には価値があるという、例の前提のもとでしか発生しえない価値」にならないためにはどうすればいいか。そういう学問の根本的な部分を論じているという野心の壮大さに価値がある。具体的でありながら、同時に思弁的でもあるということは可能なのだ。
結果的に、今、この本を読めて良かったと思った。欲を言えば修士課程に入ったあたりで読めていれば、もしかしたら私の論文観も大きく変わり、苦手意識も払拭され、研究者の道に進んでいたかもしれない。それは大袈裟にしても、本書は今年読んだ本の中で、今のところ一番読み応えがあり、書いてある内容にも強く共感した。研究者以外の人にも読んでほしい。