見出し画像

前夜に/村上春樹『シドニー!』(文春文庫、2004年)

 久しぶりに旅にでる。これまでとは全然違うが、だからと言って旅に変わりはない。前夜に荷造りをする。家にある荷物のほんの一握りを握りしめて、リュックに詰める。これまで毎日使っていたリュックの中もついでに整理する。

 旅のために荷造りをするとき、自分が小さくなったように、身軽になったように感じる。いらないもののない、さっぱりとした短髪のような気持ちになる。皮膚にこびりついた日常が、一時的に剥がれる。

 なんの本を持って行こうか。若い時はいつも、一冊のつもりが三冊にも四冊にもなった。重くて仕方ない。しかも何冊も欲張る割には、旅先で本をあまり開かない。今回もそんなに読む余裕はないだろう。一冊のつもりで本棚を物色する。

 旅には大体、昔から村上春樹の紀行文を持っていく。小説は気分によって乗れる乗れないがあるから。村上春樹はエッセイや紀行文がいい。いつもはギリシャ、イタリア、ロンドンをめぐる旅を描いた『遠い太鼓』がお気に入りだ。旅の気分に会う。でも今回は、たまたま友人との会話で、数日前に話題になった『シドニー!』を持っていく。シドニー・オリンピックはいつだったか。村上春樹が本を書くために、シドニーに滞在し、シドニーオリンピックを観戦取材して書いたものだ。扉に書いた私の鉛筆書きの日付は2004年と書いてある。大学3年の歳だ。いつもと違う本を持っていくのが少し新鮮だ。とはいえ、荷物を軽くするために一巻だけ。文庫版。

 旅の前日は、つい夜更かしになる。荷造りをして少し気持ちが昂っている。あるいは、日常から少し離れがたいような気持ちになっているからか、どちらにしても明日は朝が早いのだから、もう寝なくては。東京を離れること自体久しぶりだ。昨年はどこにも行かなかった。よいことがありますように。Kはせっせと荷造りをしている。私は自分の荷造りを終え、うつらうつらしている。イヤフォンから、野村訓市か低い声で話しかけてくる。うとうとして、また意識が戻るとまた野村だ。だんだん言葉が頭に入ってこなくなったら、もう眠らなければならない時間。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?