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月を見て「つき」と言う

 夜道を歩いていたら、小学生くらいの女の子が急に私の目の前に飛び出してきて「パパ見て、今日はスーパームーン!」と叫んだ。その子が走っていった方向を見ると、坂道の向こうに大きな月が見えた。とても明るく、周りの夜空まで輝きが滲み出ているようだった。少し赤みがかっていて、ただきれいというよりは、怖いような、少しぞくっとするような月だった。

 現代人なので早速iPhoneを構えて月に向ける。でも何度撮ってもうまく撮れない。写真はいつも、実物の景色よりも貧弱だ。特に月の場合は撮るのが難しい。何より都心部は光が多すぎて、月の明るさがわかりにくい。手前の光に遮られてしまう。明るすぎて明るさが感じられないなんて、皮肉な言葉だ。

 この感覚はたぶんいま、私が感じている日々の歯痒さに似ている。何もかもがここにあるのに、しかしその本質にある喜びになぜか触れられない。手前にある浅瀬に惑わされて、何か本当の、その奥にあるものを見損なっている。生きているってこんなもんだろうか、そういう疑問というか、焦りが常にある。何かが奪われているのではないかという疑念から逃れられない。

 私はかつて、この世界に「本質」「真実」のようなものはない、と思っていた。そういうものはすべて幻想で、表面に見えるものだけがすべてだと教わった。「真実」は社会的に構築されたものだ。何もかも脱神秘化し、相対化することで、閉鎖的な社会を開けた、より自由で公正なものに変革できると信じていた。実際に世の中はそうなってきたと思う。まだとても完璧ではなく、発展途上ではあるけれど。

 何もかもが目に見えるようになって世界はよくなったのかもしれないが、私には月が見えなくなった。月の明るさに触れられなくなった。写真に写る月はいつも小さくちっぽけで、手前の街灯のほうが明るい。自分の目で見て、心に焼き付けたほうがずっといいのに、写真を撮ることで満足してしまう。私は何から疎外されているのか。いくら考えてもわからない。社会は、たくさんの進歩の陰で、美しさに対する感性を失ったように思える。

 一歳半の子供は月を見上げて「つき」と言った。そして、ひとしきり「つき」「つき」と言ったあと、駐車している車を見て「ぶーぶー」と言った。私に今必要なことはたぶん、月を見て「つき」と言う、ただそれだけのことなのかもしれない。

 子供は何をしても面白い。子供は何を言っても面白い。子供は何をしてもいい。子供は何をしなくてもいい。彼らは祝福されているし、されるべきだ。彼らは、私たちに本来備わっているはずの無条件の肯定性を思い出させてくれる。私たちはただ存在するだけで、祝福される価値がある。それを心のバネにして、明日も会社に行く。

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