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マイケル・サンデルのインタビュー
今日はよく歩いた。丸の内で待ち合わせてそのまま北上する。神田、秋葉原を経由して上野公園を越えて、こども図書館にまで行った。神田を越え、秋葉原に到達すると驚くほど多様な人種の人たちが、一斉に横断歩道を渡っていた。歩道にはたくさんの人が同じく北上しており、まるで日本ではないかのようだった。上海を歩いた日のことを思い出した。さっき歩いていた日本橋あたりの、静けさとある種の画一性とは対照的だった。これが今の東京なんじゃないかと思った。上野に着く手前あたりで、人は少なくなった。正直少しほっとした。
昨日の朝日新聞では、共同体主義者として知られるアメリカの政治学者、マイケル・サンデルがインタビューを受けていた。「オピニオン&フォーラム」というこのコーナーでは、しばしば海外の有名学者にもインタビューしていて、読む価値がある。かつてサンデルは、N H Kの人気講義番組に出演してトロッコの話なんかをしている人とくらいにしか認識できておらず、興味も特になかったが、改めてインタビューを読むと極めて妥当なことを言っているように思われ、一気に好感を持った。それは私自身の考え方が、この10年ほどの間に変わったのかもしれなかった。
インタビューでサンデルは、主にトランプの躍進と民主党の失敗について語っている。トランプ政権の成功の根本には労働者の怒りがある。「エリートたちが自分たちを見下し、日々の仕事に敬意を払っていないという労働者の怒り」、さらに、「彼ら(民主党政権)は、このアドバイス(努力すればなんとかなるというアドバイス)に暗黙のうちに含まれる侮辱を見落としていました。新たな経済で苦しんでいるのなら、また大学を出ていないならば、失敗は自分のせいだという侮辱です」と言い、「社会的名誉や尊敬、承認。尊厳の欠如」があるとする。
これはかなり強い言葉だと思う。「見下し」「侮辱」「名誉、尊敬、尊厳の欠如」という言葉をサンデルは使っている。私もこれは日本でもさまざまな場面で感じる。都市の知識人層と、地方の労働者ではまるで見ている世界が違う。そして互いに互いのことを知らない。無知が分断を呼ぶ。エリートたちが自分たちを見下している。そう直感的に感じることで、彼らがいう「正しい」議論は無効になる。どれだけいい内容を言っても、言い方に信用がないから、決して説得されない。それがアメリカの民主党の問題でもあり、日本の民主党の問題でもある気がする。
これじゃダメだろうなと思う。属性によって、まるでリアリティが違う。社会的責任を担うべき恵まれたリベラル知識人が、全くと言っていいほど他者への尊敬を示していない。特に選挙の際に、自らのイデオロギーに合わない候補者、その候補者に投票する人への見下しが酷い。そういう人とはそもそもSNSでは繋がらないと言う前提のもと、「見下し」が蔓延している。イデオロギーが異なる人とは、そもそも会話をする機会もない。ネット上でも出会わない。そのようにあらかじめ選別された世界に私たちは生きている。
また、アメリカ人は「消費者」としてのアイデンティティにとらわれすぎ、「生産者」を軽視している。「自らを消費者とだけ考えていれば、単に安い商品を追い求めるだけになってしまう」と、サンデルは後半で言っている。共同体主義者として、サンデルは「共通善」という言葉を使う。それに対して、「消費者」たちが求めているものはあくまで、個別の利益にすぎず、それゆえ「安さ」を追い求めるだけになる。しかし、そこには他者への尊敬はない。サンデルの言葉をさらに引用する。
自らを生産者と位置づけるとき、自分の仕事や育んでいる家族、奉仕する地域社会を通じて、私たちは共同体の「共通善」に貢献する役割を担っていると気付きます(中略)それは、政治的な無力感の克服にもつながるはずです。
驚くほど普通の話だが、その普通が一周回って必要な発言だとも感じている。確かに、消費者は社会を他人事として見ている。そのため誰かが作った枠組みの外に出ることができない。他人が労働して作った商品をそのまま買うことで自らを満たし、それを自己表現と呼ぶ。しかし、それはあくまで自分以外の誰かが作ったものであり、そのことは彼らが誰かを搾取しているように見えて、しかしその搾取の対象は他者というよりも自己なのではないかと思える。結局、商品を買うという受動性によって、私たちは世界との接点を見失ってしまっている。
このインタビューの「取材を終えて」という末尾の部分で、朝日新聞の記者は、「とはいえ、特定の共同体にひもづいた「道徳」への忌避感は、なお根強いだろう。家父長主義や排外主義に陥らずに、同じ社会の成員としての誇りと尊厳を重んじる新たなリベラル像を、どう構想するか。」と述べる。いかにもリベラル的な問いかけだと言える。「消費者」は、都市化した社会、個人主義的の価値観を代弁する。そこに対抗することは、常に保守的な共同体的価値観と同一視される危険性を孕む。その中でどう考えていくのか。
私たちは生産者であるということが大事なのかもしれない。宇野常寛は最新作『庭の話』で、何かを「制作」することの大切さを書いている。つまり、人との出会いではなく、モノとの出会いを大切にする価値観だ。何かモノに触れ、制作に没頭する。それは消費とは対極にある。あるいはSNSなどで無責任に他者の誹謗中傷を繰り返し、安い承認欲求を満たそうとすることとも別の回路だ。私たちには誰とも繋がらない時間が必要であり、そこから迂回して、新しいつながりを模索するということが大切になるだろう。その意味で、繋がりっぱなしの連帯ではなく、一度切断された連帯こそが必要になる。私たちはもう一度、新しい意味で一人になる必要がある。