孤立と超越/新春ドラマ『スロウトレイン』(野木亜紀子脚本)
夜、外に出ると、さっきよりも強く雨が降っている。アスファルトに雨が染み込んだ匂いがする。こんなに強く降っていたなんて、部屋の中にいて気づかなかった。東京の冬は雨が少なくて乾燥している。晴れ渡った日が多い。特に年末年始はそうした日が多かった。久しぶりの雨だ。エレベーターで人と会うたびに、私は「雨ですね」と言った。
今日は仕事始めだった。年末年始は珍しく9連休と長い休みとなった。確か、以前何かの雑誌で、2週間くらい休まなければ、本当の意味で仕事から離れられないと読んだことがある。2週間まではいかないが、9日間休むことができたことで、すこしだけでも本当の意味で仕事から離れる体験ができた気がした。仕事から体を引き剥がすと、私はもともとこういう体質だったんだという、小さな発見がいくつもあった。
思えば、私たちは多くのものに支配されている。職場があるから、住む場所もある程度その職場から遠くに離れすぎないようにしようだとか。仕事があるから早く起きなきゃだとか。そういう社会的制約から逃れることは難しい。その意味で、私たちは本当の意味で自己決定をしているようでいてしていない。
例えば、都市というのは、私たちへの「命令」の別名でもある。都市の構造が、私たちを郊外に住まわせ、家賃を払ったりローンを払ったりしながら、定期券で満員電車に乗って都心にある会社に通うというライフスタイルを強制している。都市は私たちに多様性を与えながら、同時に私たちを多様性から引き剥がしてもいる。
松たか子、松坂桃李、多部未華子が、交通事故で両親を一気に失い、三人だけで生きてきた兄妹を演じている『スロウトレイン』という新春ドラマを見た。脚本は『逃げ恥』などでも著名な野木亜紀子。とても興味深いドラマだった。
松たか子は、出版社に勤め、小説の編集者をしていたけれど、会社を辞め、今はフリーの編集者として働き、鎌倉にある実家に、弟の松坂桃李と住んでいる。松坂桃李は江ノ電の整備工をしていて、ほとんど地元から出ない。次女の多部未華子は、カフェで働いていて出会った韓国人と付き合っており、彼が店を開く釜山に移住する。
松たか子は以前付き合っていた恋人(ARATA)がいたのだが、彼の書く小説を痛烈に批判してしまい別れることになる(『ノルウェイの森』となんとかとなんとかを足してうすーく引き伸ばしたような小説」)。今ARATAは、松が以前勤めていた出版社の営業部長になり、子供が三人いる。ARATAは言う。「大変だよ。米がすごい勢いでなくなっていく。そのために働いているようなもんだ」と。
このドラマの軸となっているのが結婚で、松たか子は度々周りの人に、付き合っている人はいないのか、結婚しないのかということを言われる。松はARATAと別れた過去を、両親が交通事故で亡くなり、妹と弟の世話をしなければならないからと自分に言い聞かせている。妹と弟も、似たような理由で自分を縛っている。姉が結婚していないのに、自分だけ幸せになれない、というようなことを言う。
このドラマは、この間のクールでやっていた柳楽優弥主演の『ライオンの隠れ家』というドラマと、いくつかの点で似ている。一番大きな共通点は、『ライオンの隠れ家』でも、主人公の柳楽優弥の両親が、交通事故で同時に亡くなっていることだ。そして、長子が、弟や妹のために自らを犠牲にしたということを、どこか後悔している様子が描かれる。アメリカ映画では、たとえば『ギルバート・グレイプ』や『コーダ あいのうた』なんかに、同じように家族のために自らを犠牲にするヤングケアラーのが描かれている。
『スロウトレイン』では、松は物語の最後で、家族を解放する。自分が家族にとっての重荷になっていることに気づく。それと同時に、自分も解き放たれる。彼女は結婚せず、一人で生きていくことにする。彼らは家族への愛が互いを縛り合っていたことに気づく。多部は韓国人と、松坂は星野源演じる作家と付き合うことになる。
両親が交通事故で亡くなるという物語上の設定は、これまでの「家族」のようなものが、すでに機能しなくなっていることをシンボリックに表象しているように思う。『ライオンの隠れ家』では親がいないが、物語の最後で、かつて共に住んだ義理の姉とその息子と共に暮らすことで、疑似家族のような共同体が出来上がる。家族の機能不全を表象するのに、そもそも親の世代を描かないというのが、この二つのドラマの特徴かもしれない。そこでは、家族との摩擦さえ起きようがない。
一方で『スロウトレイン』では、より家族の欠損感が強調される。『スロウトレイン』には、物語のほとんどの部分が、三人の兄妹に焦点が当たっていることもあるが、三人と別の世代の人物はほとんど物語に登場しない。高齢者も子供も出てこない。それも物語において親が描かれないことと繋がっている。彼らはほとんど同世代の、なんとなく同じ価値観の人々と交流し、そこで充足しているようにも見える。
『スロウトレイン』では、明らかに、家族の解体がテーマになっている。先述のARATAは、男の子三人を育てるために、米がすぐになくなる「大変さ」を嘆く。これは子育ての大変さを言う時の常套句でもあり、一種の幸せ「自慢」のようにも解釈できるが、文字通り取れば、子供がいる生活は「大変」である。松たか子と同僚の女性の会話でも、女性は結婚し子供を二人育てたが、そうでない人生もあった、と切なげに語る場面がある。結婚することとしないこと、そのことを天秤にかけるような会話が多い。そしてこのドラマでは、「結婚しない」自由の方に価値が置かれているようにも見える。
図式的に言ってしまえば、このドラマは個人主義と共同体の葛藤を描いている。社会は個人主義的な時代に突入しているが、しかしその一方で、結婚という道を選び子育てする人も少なくない。ここでは、その狭間に生きる人々が描かれる。もしかしたら、この作品は結婚というものが規範的である最後の時代なのかもしれない。世の中は個人主義的になっているが、それでも、結婚するかどうか、しないと言う選択をしていいのかどうか、悩むくらいには、共同体の影響力はある。
韓国人と付き合う多部未華子はグローバルな時代を、星野源と付き合う松坂桃李は多様性の時代を象徴しているとも言える。その二つは、やや図式的というか、設定ありきの描き方がされていた感じも否めない。
付け加えておけば、『スロウトレイン』には、どこか、役所広司が主演した『PERFECT DAYS』や、アダム・ドライバーが主演した『パターソン』の影響が見えた気がした。彼ら個人の生活が、どこか俯瞰的に描かれる。鎌倉の自然、そして松たか子が仕事で習うことになる盆石に打ち込む姿、街の風景などが美しく描かれている。そうした光景を描くことで、個人の生き方への葛藤を、より大きなものの一部として描こうという意図が読み取れた。
先述した、30-40代しか描かれないという、このドラマの特徴は、このドラマが代表しているであろう都市の高学歴リベラル層のライフスタイルと合致している。彼らは個人主義を目指し、上の世代とも下の世代とも切り離されたどこか観念的な存在である。このドラマには、そのように、大きな意味での若い世代の葛藤を描き、それを超越的(スピリチュアルなと言ってもいい)な表象で包む。しかし、それゆえ、どこか具体性を欠いてもいる。批判的に言えば、リベラルな正解を曖昧になぞっているようにも思えた。
拡大家族から核家族へ。そして形式的なものとしての家族が消滅しかかっているように思える今、家族というものは攻撃の対象である。家父長的な暴力、性差別を前提とした分業制という名の構造的な暴力、より具体的な家庭内暴力など、家族はあらゆるレベルにおいて批判的に語られ、解体しつつあるが、しかし同時に家族的な価値観は、様々な社会の側面にあまりに深く根付いているがゆえに、しぶとくもある。最近では、思想家の東浩紀が家族について興味深い思考を展開している。
様々な「伝統」と呼ばれるものは批判にさらされ、形を失っていく。私自身も、そうした精神の持ち主だ自認しているし、だからこそ地方の共同体ではなく都市での生活を選んでもいる。しかし、批判や解体の先に、どのような新しい幸せを見つけるのか、むしろ今、その構築が問題になるフェイズに達しているかもしれない。『スロウトレイン』は、その意味で、様々な限界はあれど、新しい幸せを模索しようという野心が見られた作品だった。