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「アノテーション」における主体性の揺らぎについて

「言葉」には、いろんな「言葉」がある。
「言葉」に対して、いろんな「言葉」がある。
と言った方が正しいかもしれない。

「言葉」に対する「言葉」として、例えば、注釈、解釈、解説、感想、考察、直訳、意訳などがある。考え出すとキリがない。

今日は、そんな「言葉」について、「歌詞」という観点から、考察していこうと思う。(クリエイターエコノミーについての考察を加えながら。)

考察

まず、「歌詞」について考える。
一つ、例を挙げるとしよう。

俺ならRectangle カメラかざしていく

歌詞

「歌詞」とは、アーティスト自身が、作品に対して与えた言葉だ。「歌詞」は、「作品」の一部だ。「作品」は、「歌詞」をhaveするということもできる。この時点では、アーティストという主語のみが存在する。

次は、「解説」について考えてみる。

「Rectangle」と「カメラを撮る仕草」を重ねている。

解説

「解説」とは、アーティストが、公式に出す付加情報と定義することもできる。ここで、「解説」は、一次情報である。公式インタビューなどで語られる類だ。この時点においても、アーティストという主語のみが存在する。

「注釈」

「注釈」とは、何か?「歌詞」に対する「注釈」の例として、以下を挙げる。

タワレコのインタビューで、滝沢さんが、「Rectangleとカメラを撮る仕草、を重ねている。」と答えていた。https://towerrecord.comより。

注釈

これは、「注釈」のような感じがする。実際、Geniusなどの歌詞メディアでは、AnnotationというObjectを用意している。「注釈」という言葉は、時に、「アーティストが〇〇と言っていた。」という「二次情報性」(第二者が存在する)を持つことがある。

ここで、ある疑問が起こる。
先の「解説」も「注釈」と言うことがあるのではないか?実際、文庫本やビジネス書などでは、作家自身による「注釈」が入ることがある。「注釈」には、「第一者」のみの存在も「第二者」の存在もあり得ることに気づく。

そもそも、この議論では、創造者(アーティスト)と鑑賞者(ファン)の二元論の前提が垣間見える。

「感想」「考察」

更なる思考実験のために、「感想」を考える。「ファンの感想」などというだろう。YouTubeのコメント欄がいい例かもしれない。

ウケるw 心に響いたw

感想

「感想」は「作品」に紐づくものでありながら、CDや本などには記載されない情報だ。「注釈」ではない。また、ファンという第二者が存在する。

更に、「考察」について、考えよう。

滝沢さんは、心のことを四角に例えて、生きている。心は、丸いとか思われがちだけど、彼にとって、心は、「四角のように尖っているもの」なのではないか?

考察

「考察」は、「作品」に対する推測である。ファンは、「作品」に対して、さまざまな「考察」を行う。「解釈」ということもできるだろう。FilmarksやYouTubeなどで散見される。「考察」を語るには、アーティストの外の鑑賞者が必要になる。ここでも、第二者が存在する。

やはり、「言葉」の「言葉」の議論の中には、クリエイター(アーティスト)と鑑賞者(ファン)の二元論的世界観の前提が垣間見える。

一般的に、クリエイターエコノミーの議論では、「アーティスト」「ファン」で二分して語ることが多い。

「注釈」の可能性

「注釈」という言葉は、「アーティスト」と「ファン」の境界を、溶かしているのではないだろうか?「考察」「解説」ではなく、「注釈」という言葉を用いた時、「アーティスト」「ファン」の境界が揺らぐような感覚もある。

この世界では、「アーティスト」も「ファン」も、ひとえに「クリエイター」「ヒューマン」という一つのテーブルで、議論することができる。この時、クリエイターエコノミーにおける消費構造が消失する。

「注釈」は、主体性を超越し、「作品」「成果物」に対する「事実性」および「一次情報性」の壁も越える。
「注釈」は、Fan as a Creatorを実現する。

まとめ

以上、「注釈」という言葉の揺らぎを、「創造者」「鑑賞者」という観点から、味わった。一つの思考実験として。
最初にあげた、「言葉」についての「言葉」の意味世界を考えることは、未来を考える一つの材料になるだろう。

僕は、情報の洪水のような社会におけるキュレーターの創造性に注目している。「注釈」は美しいな。これからどんな「注釈」をしていこうか。

【注釈】ここでは、「注釈」と「アノテーション」を同じものとして扱った。
【注釈2】自分の中にも、諸説あるが、今回はこちらの立場になった。自分でも反論が思いつくが、そのプロセスを楽しみたい。

余談

余談なので、飛ばして良いです。

I'd go to Rectangle, hold up the camera.

直訳

ここで、「翻訳」について考えてみる。
まず、「直訳」とは、単語レベルでそのまま翻訳したものと、いうことができるかもしれない。また、「前後の文脈を含まない翻訳」と定義できるかもしれない。そこには、新しく翻訳者が存在する。

次に、「意訳」を考える。

I’ll go with Rectangle. I'll be holding my camera.

意訳

「意訳」は、歌詞の意味的な感覚世界まで含めた翻訳のような感じがする。withや I’llやmyなど、元の日本の歌詞の世界をよく表した翻訳である。ここでも、翻訳者という第二者が介在する。「意訳」の類に、柴田元幸、村上春樹などの翻訳家が思い浮かぶ。

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