モハメド・アリとその時代に見る、人種差別とオリンピック
オリンピックの開会式は、スポーツを通じて平和などの理想を訴える唯一の場所であり、大会ごとに開催国からは全世界に向けたメッセージが発信されている。
例えば1964年の東京大会では、原爆が投下された1945年8月6日に広島で生まれた坂井義則さんが最終聖火ランナーを務め、「戦禍から立ち上がり、平和国日本を象徴する若い力」を世界に披露した。
2000年のシドニー大会では、オーストラリアのアボリジニの現役女子陸上選手、キャシー・フリーマンが聖火台に点火している。
そして、1996年のアトランタ大会では、最終聖火ランナーとしてボクシング元世界王者モハメド・アリが、バーキンソン氏病を患い、震える手を押えながら聖火台に点火をし、世界中の感動を誘った。
アリが選ばれたのは、病気を克服しようとする姿をアピールするためだけではない。
アメリカ南部のアトランタで開催されたオリンピックにおいて、人種差別を振り返り、人類の平等や平和を願うという大きな意味をアリを通して訴えたのである。
モハメド・アリという名は、生まれながらの名前ではない。元々の名前はカシアス・クレイ。
1960年のローマオリンピックで金メダルを獲得した時の名前でもある。
18歳のクレイが、オリンピックで金メダルという快挙を成し遂げてアメリカに帰国した際、待ち構えていたのは、賞賛や尊敬ではなく差別だった。
友人とレストランに入り、金メダルを見せて名乗っても、「ここは白人専用、黒人の来るところではない」と追い出される。帰り道、アリは通りかかったオハイオ川に金メダルを投げ捨てた。
プロ入りして世界王者を目指す一方、黒人指導者マルコムエックスが率いる急進的な黒人組織 ネーションオブ·イスラムの一員になり、白人が付けた奴隷の名前カシアス・クレイを捨て、モハメド・アリ「高貴な神」になると宣言をした。
アリが、カシアス・クレイとして金メダルを獲得してから8年後の1968年メキシコオリンピックの陸上では、当時のアメリカ社会を象徴する出来事が起きた。
ボブ・ビーモンが走り幅跳びで8m90の異的な世界記録を出すなど、アメリカの黒人選手による「ブラックバワー」が吹き荒れたこの大会の男子200mの表彰式でそれは起こった。
19秒83の世界記録で優勝したトミー・スミスと3位のジョン・カルロスが、メインポールに挙がる星条旗を無視、黒い手袋をはめたこぶしを突き上げたのである。
この年は黒人解放運動の指導者、キング牧師が暗殺されている。
アメリカにおける黒人差別への不満と不安がオリンピックの場で爆発したのだった。
この時期のアリは、露骨な黒人差別を温存するアメリカ社会に批判的な言動を繰り返し、ベトナム戦争への徴兵を拒否したことから、チャンピオンベルトを剥奪された。
徴兵拒否で懲役5年、罰金1万ドルの刑を受けたが、1970年に最高裁で無罪となった。
1971年にリングへ復帰するが、ジョー・フレーザーとの対戦で初めての敗北を経験する。
1974年には、ザイール(現コンゴ民主共和国)のキンシャサで、ジョージ・フォアマンと歴史的対戦を行い、32歳のアリは、奇跡の王座奪退を果たした。
アリのルーツであるアフリカで行われたこの試合は、世界的な注目が注がれた
だがパーキンソン病を発病したアリは1981年、61戦56勝5敗37KOという記録を残し引退した。
ボクシングからは引退したアリだったが、それ以外の行動を止めることはなかった。
人種差別に挑む一方、1990年の湾岸戦争では、サダムフセインを訪問。10人のアメリカ軍の捕虜をアメリカに送還することに成功した。
さらに1998年にはキューバを訪問し、アメリカ政府に対して経済封鎖の緩和を訴える声明を発表した。
9.11の同時多発テロの時には、救援コンサートでイスラム教徒を代表して平和を呼びかけた。
そして1996年のアトランタオリンピックで、最終聖火ランナーを努めたアリは、IOCからローマオリンピック金メダルのレプリカを渡された。
黒人差別に憤り、川へ投げ捨てたメダルが再び彼の手に戻ったのだ。