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大阪のおばちゃん

大阪のおばちゃんが選挙に負けた。今回の統一地方選、大阪は全域的に維新の圧勝、その勢いはまさかの保守大国奈良にまで波及し、奈良県知事は長年鎮座した荒井から元生駒市長に明け渡された。
そして、大阪のおばちゃんを標榜する女性候補二人組が揃って呆気なく敗れた。ヒョウ柄のジャケットまで着ていたのに。
大阪人として自覚もしているので白状するが、大阪ないし大阪人のステレオタイプは、大阪人自ら発信、強化している。テレビで発信されるステレオタイプな大阪人はほとんどが演技だ。その証拠に普通の大阪人でさえ、東京の山手線なんかに乗ると漫才師ばりの大阪弁で声のボリュームが大きくなる。
そんな万人が自覚的な大阪人だからこそ、候補者が「大阪のおばちゃん」と標榜することに関して、おおかた懐疑的な見方があったはずだ。なんせ大阪のおばちゃん自体がほぼ虚構なのだから。うそやん、さぶ、すべってるやん。これが真の感想だろう。
結果的には、維新がこれまでやってきたコロナ対策、IRや万博の誘致、子育て・教育の無償化、退職金の返上といった数々の実弾に勝てるはずもなかったが、おおよそ賛否の分かれるIRを争点にすれば、シルバーデモクラシーで勝てるんじゃないかと大阪都構想の再来に期待したのだろう。
そして、人情に訴えたら票の上積みもできるはずだと読んだ。横山ノックを知事にした大阪人なら人情だ!ということで(一体何年前の話やねん!)、大阪のおばちゃんという旗が掲げられたに違いない。
たしかに大阪人は人情に弱い。これは多分ほんと。だからこそ、他人の懐にすぐ入ろうとするし、初対面でもユーモアを打ち放ち、人との距離感を縮めることを第一優先に動く。
しかし、考えてほしい。
大阪のおばちゃんってなんだ?
ヒョウ柄?ノー、それは土ダメの世界だ。
大阪のおばちゃんの象徴は、飴ちゃんなのである。セレッソのマスコット、マダムロビーナもヒョウ柄を着ているが、彼女は常に飴ちゃんを持ち歩き、ファンたちにこぞって配っている。ほんの少し飴ちゃんを分け与えることで、相手を気遣い、優しさを施す裏で、批判を摘み取り、大きな支持を得る。これこそが大阪のおばちゃん。大金を積まれたり、うまく言いくるめられるよりも、飴ちゃんという手のひらに収まる甘いモノのほうが実は強いことを本能的に知っている。そして、それをさらりとやってのける。これが概念としての大阪のおばちゃんなのだ。
だが、考えてみてほしい。
ここがきわめて、肝心である。
選挙活動中に、飴ちゃんを配れるか。
公職選挙法で配れないのである。
つまり、彼女たちは飴ちゃんも配れないビジネスおばちゃん、コスプレおばちゃん、おばちゃんまがいとなる。人情でだまされかけた大阪人も、飴ちゃんがもらえないことで、はたと気づくだろう。あれは、エセだと。パチもんだと。
そして、逆にこう思ったのだ。大阪のおばちゃんと大阪人を馬鹿にしてるのか。大阪のおばちゃんを何だと思ってるのか。大阪のおばちゃんなら、馬鹿になって票を入れると思ったのか。
飴ちゃんを配れない時点で、ヒョウ柄のジャケットなんか着たらあかんかったのである。後々公職選挙法違反になろうが、飴ちゃんを配ったほうがまだ勝てたかもしれない。ちょっと中途半端だった。得票数は200万票くらい差がついていたから、1個5円の飴で1000万円か。たった1000万円。そういう意味では惜しかった。あと少し工夫と思い切りがあれば!
そう、なんのこっちゃである。
色々ごめんなさい。

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