廃れていく広告
駅や電車は広告が多い。中吊り広告なんて、背の高い人には目の前でひらひらと不快でしかないのだが、地下鉄には必ずぶら下がっていて、暇なときにはぼーっと眺めるのだが、大概の場合、どうでもいい情報で記憶に留まることなく垂れ流されていく。そんな広告たちが最近気づくとどんどん失われていっている。
それなりの乗降客数の多い駅ですら、ホームの壁の広告は広告主がつかず、薄汚れた国内外のリゾート地の写真がほとんどネガティブキャンペーンのように掲示されている。よく見たら、かつてあんなに隆盛だった中吊り広告もまばらになっているし、あっても鉄道会社のキャンペーンばかりだ。本来の広告はわずかで、小さなスペースの中に脱毛だの大学だのマンションだの深見東州だのが並ぶくらいだ。
その理由はよく分かる。ほとんどの乗客はぼーっと眺めるなんてことなく、熱心にスマホをいじっている。SNSをチェックしたり、ゲームをしたり、動画を観たり。本を読む人もいるが、やることもなく、車窓を眺めたり、車内広告を見たりすることは、絶滅的になくなってきている。
もちろん広告自体がなくなってきているわけではなく、Googleがつくったアルゴリズムと抜き取られた個人情報でパーソナライズされた広告が、これ見よがしにその手のひらの画面に映し出されている。広告を見ないためには課金するしかないという不思議な世界だ。
本屋に行くことも減り、本棚をザッピングして、新しい出会いに心躍ることがなくなったように、ぼーっと眺める広告が減り、時代や世界を知ることもなくなっていく。
ほんの狭い、極端に(しかもほとんど偏執的に)パーソナライズされた情報にさらされ、ある意味カテゴライズされた人の型にはめられ、無個性で匿名に堕ちていく。
駅の階段で、ホームで、色褪せたリゾート地の写真をぼーっと見ながら、そういったなかなか抵抗も対抗もできないあれこれについて、考えた。
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