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うしお号

南港ATCのサバイバルという子ども向けのイベントに行った帰りに、南港ポートタウンに寄った。人工島に大阪市港湾局によって開発された高層住宅のみで構成されたかつてのニュータウン。車を入れないノーカーゾーンで、1万戸3万人が住んだマンション以外はほとんど公園になっている。公園の中にマンションが林立するまち。子どもにとっては天国のような。
かつて、僕が高校3年まで暮らしたまち。
子どもが生まれる前に、両親が引っ越したせいで、このまちに足を踏み入れるのは実に8年ぶりだった。子どもたちを連れて初めて来る。まだ幼なじみは住んでいたが、ずいぶんと廃れていることは知っていた。かつての母校は小中一貫校になり、母校があった校地には新しい中高一貫の学校ができた。
西駅の駅前の雰囲気は変わっていなかったが、子どもだった僕らが毎日のようにたむろしていたUR団地の駄菓子屋は空き店舗になっていた。暑い真っ昼間の時間というのもあるだろうが、恐ろしいほど人気がなかった。相変わらず緑が多く、木の実のようにセミの抜け殻が枝にぶら下がっていた。
廃業になった雇用促進住宅は廃墟のように荒れていた。毎日サッカーに明け暮れた公園は、雑草が鬱蒼としていて、フェンスがなくなり、子どもが遊ぶような場所には到底見えなくなっていた。
それでも、分譲マンションの団地はさすがにきちんと手入れされていて、親友がスケボーで滑り降りて前歯を折った滑り台も、好きだった女の子の家の前の高い鉄棒も健在だった。
ずっとシーソーがしたいと言っていた娘の夢が叶い、家族4人でシーソーに乗る。このシーソーも友だちと日が暮れるまで遊んだ記憶がある。
そして、うしお号もまた健在だった。
クライアントと打合せをしている場でふと思い出し、グーグルマップでまだあることを確かめていたから、これを子どもたちに見せたいと思って、わざわざこんな暑い中歩いてきたのだ。
マンションが複数棟並ぶ団地の中庭みたいな公園に、砂場の中に置かれた本物の船。昔は操縦席にメーターまであったが、それは鉄板で塞がれていた。かつての悪ガキたちはこの船の屋根から飛び降りて、度胸試しをしていたのだが、今は屋根に登れないように鎖がしてあった。あんなに描かれていた卑猥な落書きもなくなっていた。(あのマークは今の子どもたちに伝わるのだろうか)
もう三十年も経っているのだ。
ずいぶん昔だ。
緑や遊具は残っていた。
僕のように去っていった住民も多いだろう。友だちのようにまだ残っている住民もいるのだろう。
澄み切った青空に、羨ましいほどの緑、公園。
だけども、出来てからただただ古くなっていくしかなかったこのニュータウンに、懐かしさと同じくらい、哀しさを感じた。
誰が悪いというわけでもないのだろう。みな一様にそのときはよく考えたのだ。そのとき出来ることを真面目にたぶんやったのだ。
そして、多くの人がここに住み、ここで育ち、たくさんの思い出をここでつくった。
楽しかった。
大好きなまちだった。
今ここに住んでいる人たちはどんな暮らしをしているのだろう。そんなことに思いを馳せながら、逃げるように立ち去った。

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