【プレイレポート】鬼の研究_第2話《猿の怪・2》_前編
――信州信濃の光前寺 しっぺい太郎に知らせるな
静岡県見付天神に伝わる説話
1.火花の名前
奇妙な一行が黄昏の山道を急ぐ。
長身、白皙の僧形の男は、同じく墨染の衣に身を包んだ骸を背負っている。これを先頭に、顔や手足のあちこちに煤とも泥ともつかない汚れをこびりつかせた少年。その足元を、真っ白な毛並みのふくふくと丸い仔犬がまつわりつくようについてゆく。その脇を、ちぎれた鎧と蓑を綴りあわせて傀儡に仕立てたようにも見える風体の――しかし、操るものの姿もなく自ら歩いているのだから、からくりではなく、少なくとも“そういうモノ”なのであろう――何者か。これは血まみれの白い大犬のぐったりと動かなくなったものを肩に担いでいる。街道をゆくうちに難に遭った者たちであろうと一目でわかる血生臭さである。だというのにしんがりは何故か、歳のころ五つ六つばかりに見える童女である。男たちに遅れもせず、すたすたと歩いてゆく。
「ところで、今さらなのだが」
僧形の男――迦楼羅は唐突に、後ろに続く一行を振り向いた。
「まずは人里を目指すのがよかろうから、拙僧が世話になっている檜皮の村に向かっているのだが――それで構わぬな?」
「おいらはもともと檜皮村のもんだよ」
少年が答える。
「ならばよかった」
「あんまりよくねえ」
「――それは、いったい……」
「着きゃあ、わかるよ。とにかくおいらは檜皮村に帰るんでかまわねえよ」
ぶっきら棒に答える少年を気づかわしげに見遣り――しかしそれ以上このやりとりを続けても仕方ないと悟ったのか、迦楼羅は小さくため息をつき
「そなた、名はなんという」
とだけ問うた。
「正太郎」
まつわりつく仔犬を抱き上げながら少年は答える。
「そうか、では――」
そこまで言って、迦楼羅は口ごもった。目は正太郎の後ろにいる、鎧とも傀儡ともつかぬ何者かを見ている。このものには何といって名を問うのがよいのだろう。
「あんた、名前は?」
迦楼羅の逡巡を知ってか知らずか、正太郎少年は鎧傀儡の蓑を掴んで軽く引いた。助けてもらったからか、なんとなく懐いてもいいように思っているらしい。
「名前? 名前とは何だ?」
――ああ、だから問いたくなかったのだ。やはりこの世の理(ことわり)の外のものではないか。
内心で頭を抱える迦楼羅に
「火だよ」
こともなげに応えたのはしんがりの童女のよく響く声である。
「あたしもお山の者だから、そういうものはすぐにわかる。これは、火だよ。燃える火、山火事の火――ああ、でもちょっと違う、燃えたい火だ。でも、火には違いない」
「火……か」
そうなのだろうな、と、ため息とも納得の吐息ともつかぬ言葉を、迦楼羅は声にせずに吐いた。火、山火事に似ているがそうではない、燃えたいという意志をもった火。不思議な物言いだが、そう言われれば得心が行くようにも思える。
「火……そうか、おれは、火、なのか」
鎧傀儡は己の掌、指、そして身体全体を矯めつ眇めつしながらつぶやいている。
「だが、それではいかにも呼びにくい」
答えのような、そうでないような言葉を迦楼羅は口にした。
「おぬしは確かに火かもしれぬ。だが、名前というのはおぬしが何であるかをいうだけのものではない。おぬしがほかの者ではなく、おぬしであるということを示すものだ……だから」
言いかけた時、鎧傀儡のふわりと窪めた掌のなかで、乾いた音を立てて火花が爆ぜた。
「ほかの火でなく、おれであること――おれの火は、これ、だ、が……」
「爆ぜる火、か」
「うむ。そうだ。これが、おれの火だ。だから、おれは、はぜ火だ」
そう言いきって、そして鎧傀儡は迦楼羅を凝(じ)っと見た。
「これで、よいか?」
「はぜ火か。よい名だ。名乗り遅れた。拙僧は迦楼羅という」
次に童女の名を問おうとしたとき、正太郎が突然硬い声で言った。
「着いた。檜皮村だ」
2.檜皮の寒村
日はとうに山の端に隠れている。どうやら物のかたちがわかるうちに、一行は村の入り口とわかる道切りの注連(しめ)が渡されたところまでたどり着いたのだった。
注連縄に編みこまれた紙垂(しで)が白く垂れ下がり、村境の門柱には黒々と陰になって魔除けの大草鞋(わらじ)の形が沈み、この先は間違いなく人の住む場所であると示している。
――どうやら無事たどり着いた
迦楼羅の声には安堵の色がにじんでいたが、そのすぐ後ろの正太郎の表情は反対に、ますます硬く険しいものになっている。
「村の衆、護法の僧じゃ。今、戻った!」
呼ばわった迦楼羅の大声に飛び出してきた村人たちは、しかし
「帰ってきたぜー‼」
その後ろから半ば自棄のように張り上げた正太郎の大声を耳にしたとたん、声にならない悲鳴をあげて立ち尽くした。
道切りの注連縄と魔よけの大草鞋こそ一人前だが、檜皮の村はこうしてみれば、見事に寄る辺ない寒村である。迫る森の中を抜ける頼りない道の果てに、粗末な家が十軒あまり、森を切り開いてこしらえたのであろう畑の中に点在しているばかり。その畑もところどころ荒らされ、軒を欠かれた家もいくつか。
「正太郎、お、おめぇ、何もなかっただか……?」
村長が思い切ったように一歩前に進み出て正太郎に声をかけた。
「あァ、戻ってきたぜ」
ふてくされたように答える正太郎。
そしてせっかく村の子どもが生きて戻ってきたというのに、村長はがっくりと肩を落とし、深くため息をついたのだった。
「正太郎坊が無事戻ったのは喜ばしいことではないか、ところで頼みがあるのだが」
重苦しい空気を破ったのは、忍慶の亡骸を背負ったままの迦楼羅である。
――忍慶師を待ちながらしばらくこの村で過ごしたと思ったが――村の衆にしてみれば仕方なかったろうこととはいえ、拙僧に気づかれぬようにあれこれと褒められはせぬことを為しておったのだな……
おおかた、奇怪な猿に恐れをなし、村のみなしごを生贄に差し出して害を逃れようとしたものだろう。退魔の行を重ねていれば、このような有様に行き合うのも珍しくはない。
「村を囲む猿の声に構えて出てみれば、ひと足遅く、忍慶どのはこのようなお姿に。だが仇の猿どもはこちらにおられる方々の助太刀を得て打ち倒した。まずは忍慶どのを御堂の裏手にでも葬り、弔い申し上げたいのだが」
おお、それは大変なこと、どうぞ御堂をお使い下さって忍慶さまをお弔い申し上げてくださいませ、と村長は何かほっとしたような声で言い、一行を村はずれの堂に案内するとそそくさと立ち去ったのだった。
というわけでまずは忍慶の亡骸を葬り、次いで借りてきたという霊犬も葬った。借りたものが既に返せないのは何とも気まずかったが、猿の怪と闘って斃れたのでは仕方あるまい。
せめて何か返せるものがないか、ということで、葬る前に首輪を外した。首輪につけた札には墨黒々と「破夜丸」とあるのは、いかにも霊犬の名であった。首輪もさぞかし由緒あるものであろうと思われたが、そちらには借りてきた村の名も、霊犬を預かっていたであろう家の名もなく、ただ桃をかたどった紋章がひとつきり。
――はて、これは……
その紋章に何か見覚えがあるような気がして、迦楼羅はその線を指でなぞった。
と。
唐突に、脳裏に昏い光景が沸きあがる。
闇に閉ざされたきつい坂道を、はるか彼方、幽(かす)かにちらつく明かりを頼りに駆け上る。背後から恐ろしいうなり声がいくつも追ってくる。ここは常夜の黄泉比良阪(ヨモツヒラサカ)だ。追ってくるのは黄泉軍(ヨモツイクサ)と呼ばれる悪鬼、死せる妻の腐れた身体から沸いた雷神どもである。
そうだ。おれは死んだ妻がなつかしくてたまらず、彼女に会いにここに来たのだ。帳の陰から愛しい愛しい声がしたのだ。
――どうして今までいらっしゃらなかったのですか。私はすっかりこの地に馴染んでしまいました。でもせめてひと目お会いしたい。身づくろいをする間、そのままお待ちください。
確かに妻の声だった。身づくろいなど他人がましい。待つはずがあるものか。おれは帳を引き開けた。そして腐れ膨れて横たわる妻の躯を目にしたのだ。あまりに急なことだったから、おれは思わず恐れて叫んでしまった。飛び退り、逃げ出してしまった。後ろから妻の声が追ってきた。
――憎らしい人、お待ちくださいといったのに、どうして帳を開けたのですか。どうして見たのですか。見ておいてどうして逃げたのですか。
声と共に足音が、うめき声が、がちがちと牙を鳴らす音が、追ってくる。それが妻の身体から這い出してきたものだと、なぜかおれにはわかる……
歯を、食いしばる。
それ以上を”思い出す”前に、どうにか破魔の真言を喉の奥で呻き、迦楼羅はようやく息を吐いた。
――そうだ、桃、だ。
あのあと、死せる妻との約束をたがえた男は、どうやら命拾いをする。常夜と現世との境目に生えた桃の木にたどりつき、たわわに実った実をもいで悪鬼の軍勢に投げつけるのだ。唐天竺の説話にも、桃は生命の凝ったものとして現れる。死の軍勢と言えども生命の精髄を礫のごとく投げつけられてはひとたまりもない。たたらを踏む鬼どもを前に、男は渾身の力を振り絞り、大岩を転がし落として、常夜へ下る坂へと続く洞穴の入り口を塞ぐのだ。
そう、そしてそれ以来、桃は「この世の生きとし生けるもの」への加護の証となったのだ。
もう一度、迦楼羅は紋章を指でなぞった。
再度、幻視が目の前に広がる。
だが、この時見えたのは、つい先ほどとは全く異なった光景であった。
手に手に桃の意匠の宝具を携える、神仏の加護を受けたもののふたちの姿。
迦楼羅の属する護法宗にも所縁ある、鬼を、魔を、退治ることに身命を懸けるもののふたち――彼らはみな「太郎」と呼ばれている……