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「一生懸命」は命がけじゃなくて「○○」になることだった



「一生懸命やります!」

って言ったこともあるだろうし、言われたこともあるでしょう。

いえ、もしかすると、自分自身に対して使うことの方が多かったりするかもしれません。

あなたは、一生懸命という言葉をどのようなイメージがありますか?

一生懸命って要は、「がんばる」ってことですが、どの程度のがんばりだと思いますか?

なんとなくですが、一生懸命という言葉からして、「命がけ」という強い意思と自らの犠牲をも厭わない覚悟でやり尽くすというニュアンスがありません?

ベストを尽くすという言葉より重い感じがしますよね。

もしあなたが、一生懸命という言葉のイメージが、「命がけでやる」だとするならば、自分に言い聞かせるとき、心の中で自分に対して「命を懸ける覚悟でやれ」って言ってることになります。

どうです?なんだかしんどく感じるし、何をそこまで自分を苦しめなきゃならんのだって思いますよね。

とにかく何が何でもがんばれ、やりつくす覚悟でやれと、たとえ自分に言い聞かせたとしても、それはやる気を奮起させるどころか、かえって不安や心配になり、自らを苦しめることなのです。

たとえば、あなたが心配しているとき、あなたは何をしていると思いますか?

そうなっては困ることに一生懸命になっているはずです。

まだ起きてもいない心配ごとばかりが頭の中でいっぱいになり、悪い方へ悪い方へと一生懸命に想像してしまうのです。

一生懸命とは、大変なことなのだろうか? 苦しくてもがんばることが一生懸命だとしたら、それはもはや「苦労」でしかないわけです。

前回の記事、「成果を出せる人と成果を出せない人の大きな違い」で、苦労だと思っているとそのあとは苦労しかやってはこない。というお話をしました。

それは、「苦労すれば報われる」という言葉が重要だと思っていると、無意識的に、苦労ができる情報を見つけ、あえてそれを手にしてしまうので、心身を痛めつける負のループへと、無意識に足を突っ込んでしまうからです。

苦労すれば報われるというのは、アクセルを全力で踏みながら、ブレーキを思いっきり踏んでいるようなものだということです。

すなわち、一生懸命になることが「苦労」だと思ってしまうと、その一生懸命は報われない。ひたすら苦行の道を歩み続けることになってしまうのです。

どうでしょうか。今ここから、一生懸命という言葉の解釈をあらためてみませんか?

「一生懸命やろう」という掛け声を、自分自身に対しても、誰かに対して使う時も、「苦行」という解釈を拭い去れば、きっと今よりも本気で一生懸命になれるはずです。

一生懸命は「いのちがけ」ではなく「○○」になること


本当に一生懸命って苦しいものなのか? なぜ、「命がけ」でやらなきゃならないことなのか?

それには理由があります。

一生懸命とは、「命をかけて物事に当たるさま」という意味だとされています。

命がけでやれば、何が何でもやろうとするので、知恵をしぼり、思いもよらない力を発揮できる可能性があるということです。

一生懸命になり切れていない状態を「中途半端」とか「いいかげん」といいます。

「中途半端」は、態度などが徹底せず、どっちつかずの状態であること。態度が徹底せず、どっちつかずの状態であれば、自分を棚上げして不満ばかりでてくるので、愚痴しか出ない。

「いいかげん」は、物事を最後までやり遂げずに途中で投げ出すことであり、弁解して責任転嫁したくなってしまいます。

つまり、一生懸命であれば、「中途半端」になる暇もないし、「いいかげん」になる暇もないわけです。

一生懸命になるということは、愚痴も言い訳も出せないくらい命を懸けてがんばること。という意味合いがこめられているのです。

ですが、どうでしょうか?

なんだか、しんどくないですか? 重苦しいですよね。

では、子供たちの遊ぶ姿を思い浮かべてみてください。

子供は遊びに「一生懸命」です。無我夢中になって遊んでます。

この、一生懸命に遊んでいる姿を、「命をかけて物事に当たるさま」に見えますか?

見えないですよね。

僕には、「楽しんでいる」ように見えますけど。

僕の子供の頃の記憶をたどる限り、遊びは適当よりも、一生懸命の方が楽しかった。一生懸命野球するのが楽しかった。一生懸命に川で泳ぐのが楽しかった。ゲームをクリアするために、とにかく必死だった。

ましてや、中途半端に遊ぶという感覚はないし、いいかげんにやろうと思ってはいなかった。ただ楽しむために一生懸命になっていた。

一生懸命だという意識なんてなかったけど、とにかくめちゃくちゃ「楽しむことをがんばっていた」記憶がよみがえります。

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そんな僕もやがて大人になると、子どもの頃の「楽しむことをがんばる」という一生懸命を忘れてしまい、いつの間にか、一生懸命に " 理由 " が必要と考えるようになっていたんです。

一生懸命にやってどんなメリットや得があるのか、こんなに一生懸命になって意味があるんだろうか。

などと、一生懸命になることに「理由」を必要とし、さらに、その「見返り」さえもほしくなっていたのです。

あなたはどうだろうか? 条件付きの一生懸命になってはいないでしょうか?

子供の一生懸命に「理由」もないし、「見返り」も求めてはいません。ただ「楽しめたらいい」だけだから。

それは、「遊びだから」ということもありますが、でも「一生懸命」であったことは確かです。

そこで思ったのですが、人はもともと「一生懸命になる」ということは " 夢中 " になることだったのではないか、ということ。

子どもの頃のように、中途半端やいいかげんだと、楽しめないから、夢中になって楽しむためにがんばっていた。

それはつまり、つまり、一生懸命にならないと、本能的な楽しさなんて味わえないのではないか、ということです。


一生懸命とは「過程」を楽しむこと


僕たち大人たちは、一生懸命を、命がけとまではいわなくとも、もっとがんばる、これじゃダメだもっと必死にならなければならぬ。とかで、楽しむどころか、苦しんでいると感じてしまいがちです。

もともとあった「一生懸命を楽しいと感じるプログラム」をわざわざ書き換えてしまっているようです。

どうして、子供の頃は一生懸命を楽しむことができるのに、大人は苦しんでいると思ってしまうようになったのか?

それはおそらく、僕たち大人は " 結果 " を楽しむことばかりを求めているからではないだろうか。

苦しみを味わいながらも一生懸命になるのは、その見返りとしての " 結果をだした時の楽しみ " のため。だったりしません?

子供は一生懸命の状態(プロセス)を楽しむことができるが、大人は結果に対する喜びのために、その犠牲として一生懸命を投資しようしてします。

必死こいて一生懸命にやった、がんばったからちゃんと結果もでた。うれしい!

あれ? それだけです。結果の喜びに楽しんでいられるのは意外と短くて、あまりにも刹那なものだったりする。

もちろん、その一瞬の喜びのために、多くの時間を犠牲にして一生懸命に苦しむ道のりをあえて選択することもあるかもしれません。

しかし、結果は必ず出るとは限らないし、結果がでるまで苦しみ続けることになります。

結果のために一生懸命にプロセスを苦しむことは、心の状態は決して良くなため、パフォーマンスは下がり、冷静な判断ができないため、ますます結果は出にくくなります。

仮に結果が出たとしても、楽しいのはその一瞬だけで、その数秒間後からまた苦しみがはじまってしまうか、もしくは燃えつきてしまうかのどちらかです。

苦しんでいればいいことがあるなどというのは妄想です。

一生懸命になる、頑張ろうとする人の多くは、「こんなんじゃダメだ!もっと必死にならないと」とかで自分を奮い立たせようとします。

なんだか、気持ちを高揚しているように思うのですが、あまりに「もっともっとがんがらなくては」になると、むしろ気持ちを痛めつけている。

痛めつけた気持ちをリセットするために、さらに一生懸命になる。

一生懸命になりすぎて、自分を痛めてしまい、その痛みをリセットするために一生懸命になる。まさに、負のスパイラル。

つまり、「一生懸命にならなきゃ」という自分の気持ちをコントロールしようとするために、一生懸命になるという、本当の目的を見失ってしまうのです。

結果を出すことが目的なのであるならば、そのプロセスが最も大事なはずだが、結果を出すために一生懸命になるべきだという気持ちに一生懸命になってしまうのは、苦行のプロセスとしかいいようがありません。

フォーカスすべきところが完全にズレてます。


一生懸命を楽しむためには?


やっぱり、一生懸命になるということは " 夢中になり楽しむべき " なのではないでしょうか?

そのためには、「良い結果」という期待を求めすぎなことも必要です。

結果がどうなろうが、とにかく、今は一生懸命になる。夢中になってがんばる。すれば、本能的な「楽しさ」を感じることができるはず。

人は、どうしても楽しむことと、一生懸命になることとを別々なものとして、分けて考えようとしてしまいます。

仕事は一生懸命やろうとするが、楽しもうとはしない。

辛いプロセスの一生懸命に多くの時間をかけるくらいなら、一生懸命を楽しんだ方がよさそうだし、パフォーマンスも上がり、よい結果を生み出す可能性も高くなるに違いない。

そのためには、「ねばならない」という気持ちを捨てることが大切です。

「ねばならない」気持ちになるということは、「良い結果をださなくてはならない」と思っているからです。

なので、結果がどうなろうが、とにかく今は、夢中になる。すれば、本能的な楽しさを感じることができるのです。

夢中になるにはどうすればいいか?

やることに対して夢中になるためには " 興味・関心 " を持つことです。

どうやったら職場の環境がもっと良くなるか、より多くのお客さんに喜んでもらえるか、より多くの人のためになるかを考えながら仕事をしたら自然と「夢中」になっていくだろうし、

家族一人ひとりの好みや興味を知れば、「じゃあ来週末は〇〇に行ってみようか!」「家族みんなで◯◯したいなぁ」って " 夢中 " で計画を立てるだろうし、

「◯◯になるために」「◯◯の役に立つために」って具体的な目標を掲げて仕事や勉強に取り組めば、おのずと " 夢中 " になるはず。

子供たちが楽しそうにしているのは、夢中になるから。夢中になるきっかけはいつも「興味・関心」からです。

一生懸命になるということは " 夢中 " になることであります。

何かに夢中になることは「好きを仕事にする」「自分の能力を生かしていきる」につながってくる。

誰かが決めた「自分らしさ」より、自分に正直でいたい。今この瞬間に夢中になれることに気づくか、気がつかないふりをするか。

夢中になれること、その連続の先にしか未来はない。

それが心地よく、自然体でできたら、「幸せ」ですよね。

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